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今夜の番組チェック


Tell Me A Bedtime Story
初稿掲載日:2006年1月14日 / 最終修正日:2006年3月21日 / 現代編追加設定まとめ / 謹呈: なりぐ様 / 作者:daydreamer

 1月15日。日曜日ではあったが、みちるは朝から無限学園内で机に向っていた。
 本日は試験日。通称"APテスト"と呼ばれる学内試験を受験するために来校していた。APとはAdvanced Placement(飛び級)の略であり、APテストとは飛び級や1学期分の単位取得を希望する学生のために定期的に行われる認定試験のこと。みちるは、3学期の単位取得と高等科への進級のために、大学入試レベルの主要5教科の問題を解いていた。…ヴァイオリンの練習と絵の制作には、多くの時間が必要とされる。時間はいくらあっても足りなかったし、テストによって進級を認めてもらえるのならば、利用しない手はなかった。さしあたって、昨夏から取り掛かっているF130号の油彩“Messiah”を、そろそろ詰めて仕上げていかなければいけない。公募展の締め切りは来月下旬に迫っていた。それに何より、セーラー戦士としての任務を遂行するためには、無限学園の生徒であるという身分の保障が必要であった。
 もちろん半学期分の単位をまとめて認定するなど、現行の公立小中学校においては不可能である。しかしみちるが在籍する私立・無限学園では、国内で唯一認められていた。
『“生徒一人一人の無限の可能性”を引き出すために、その障害となる諸制度の改善や撤廃を国にはたらきかけていく。その目的のために、本学園を実践モデルスクールとして積極的に国に提供し、先進的かつ実験的な教育プログラムを行う場として、多くの優秀な若者を集め、世に輩出してゆく。』
 学園のオーナーである土萠創一教授のこのような考えのもと、数年前から文部科学省と共同で幾つかのパイロット事業が展開されていた。APテストによる単位認定もその一つであり、義務教育課程における学年制を単位制に変更する新しい試みであった。対象となる学生は、“プロフェッショナルクラス”全員と、その他の各クラスの成績上位者3名。“フィジカルクラス”に所属するはるかも、この制度を利用して、学園のどこかで同じ試験を受験しているはずだった。
 ようやく試験から解放されたのは、夜6時過ぎのこと。流石に疲れてしまったが、そんな疲れに浸るよりも、ずっと深刻で不安なことがあった。試験の出来に対してではない。そうではなくて、同じ試験を受けているはずのはるかの存在を、学園内で終日感じなかったことに対して。3日前まで彼女は、オーストラリアのメルボルンで自主トレとテスト走行を行っていた。帰国した直後に空港から一度電話をくれて、今日の試験を予定通り受ける旨を伝えてきた。予定通り受験しているのならば、今日は今年初めてはるかと会う日になるはず。しかし試験終了後も彼女の姿はなく、電話もメールも通信機も繋がらなかった。戦士の直感はノーと答えるが、“何かあったのではないか”と心配にならずにはいられなかった。

 胸の霧が晴れないまま学園の校門を出ると、牧野が車を回して待機していた。後部座席のドアを開けられて仕方なく乗り込むものの、内心は自宅に帰ることを躊躇っていた。牧野はこちらが疲れていることを察して、出迎えの挨拶以外は車内で終始無言だった。車外では、今冬何度目かの雪がちらついていた。不安が心をよぎる。はるかはどこにいるのか。なぜ試験会場内で会わなかったのか。なぜ連絡がとれないのか。考えれば考えるほど心配の種は増えていき、顔が自然と俯いてしまう。バイク事故。風邪。想定外の敵との遭遇。試験に集中するあまり、それらの可能性を予期できなかった自分を責める。…せめて今日の試験を受けたかどうかだけでも、確認しておきたい。
 みちるは顔を上げ、牧野にこう申し渡した。
「じい。 天王洲のコンドミニアムに…行ってくれないかしら。」
 主の発言を受けて、運転中の牧野は僅かに頭を引いた。そして前を向いたまま、肩越しに主人の心境を思いやった。
「天王様とは、学園内で今日お会いにならなかったのですか?」
 ええ、とみちるは元気なく答え、次の言葉を待った。牧野は、自分とはるかの関係を知っていた。牧野の妻で、海王家の家政婦長として長年働いているタエ子(ばあや)もそうだった。どちらの者にも、こちらから教えたわけではなくて、自分の身の回りで業務に従事していて自然と察したらしかった。そして徐々に、本当に少しずつではあるけれども、理解を示してくれるようになった。はるかをパートナーとして選んだ自分のことを、大雇い主であるみちるの父に上手く紹介して、表面上ははるかと父の良好な関係を築いてくれた。父が不在時の門限過ぎの帰宅や外出に対しても、行き先を知っていながらしばしば目をつぶってきてくれていたし、誰よりも心配して待っていてくれた。はるかの覚醒を阻止しようとサーキット裏で戦って負傷した際も、「こんなにひどい怪我をお前に負わせたのは誰なのだ!?ただでは置かないぞ!」と熱り立つ父を必死になだめ、“事故”ということで処理してくれたのは牧野夫妻だった。夫妻の助けがなければ、はるかとこれまで逢瀬を重ねてくることは不可能であったし、これからもそうだった。
 今日のように雪の降る寒い夜は、早く屋敷に戻して休ませようと思っていたはずだ。それなのに“寄り道したい”と言い出す自分を、内心では強く諌めたいと思っていることも、十分に察せられた。だからもし牧野が今“ダメだ”といえば、今日は諦めて、明朝はるかの自宅を訪ねるつもりでいた。
 牧野はしばらく黙した後、穏やかな口調で語り始めた。
「左様でございましたか…。……。それでは、このまま天王洲のコンドミニアムに向いましょう。…。…もし天王様がご在宅で、そのままお部屋に留られる場合でも、わたくしに一度お電話ください。わたくしは屋敷に車を戻し、明朝8時にまたお迎えに参ります。…旦那様と奥様は、明日の夜に屋敷にお戻りになるご予定です。…。…ご覧の通り、外では雪が降っております。今夜はさらに冷え込みが強くなり、明朝には積雪がみられるであろうと、18時の予報で申しておりました。どうかくれぐれも、御身体を冷やされませんよう…。」
 牧野はそう言って、また無言に戻った。“ありがとう”と言いたいところを我慢して“わかったわ”と返事して、視線を車外に移す。雪は次第に吹雪き始め、視界を白く染め始めた。



 天王洲のコンドミニアム・タワー前で車を降りたときには、傘を差すのが無意味なくらいの強風と大雪が街を襲っていた。冬将軍がやたらと元気なせいもあるが、空がこんなに荒れるということは、それを司る戦士であるはるかにも何らかの影響が出ていることが予想された。急く気持ちを抑えて、夜の雪道を注意深く歩み行く。コンドミニアムのメインエントランスの奥に進むまで、背中にずっと牧野の視線を感じていた。

 1階ロビーに着くと、顔馴染みとなったフロントの者がいた。彼によれば、はるかは一昨日に帰宅したまま、館外に全く出ていないとのこと。コンドミニアムの出入り口は一箇所であることを考えると、やはりはるかは今この階上にいる可能性が高かった。再度はるかに電話をしてみるものの、依然として繋がらない。仕方なくフロントに事情を話し、エレベーターのキーを通してもらう。
 はるかの部屋である1127号室の玄関は、再びキーでロックされていた。インターホンを押しても応答はない。嫌な予感ばかりが募った。
 心配して付いて来たフロントの者にマスターキーを通してもらい、玄関で待機させ、自分一人で室内に入る。部屋の明かりはついておらず、名前を呼んでも返事はない。リビングのカーテンは開けられたままで、闇色のキャンバスを外の吹雪が白く色づけていた。明かりをつけて、再び名前を呼ぶ。床には旅行用のスーツケースが開いて転がっていた。ケースの状態をみる限りでは、まだ片付けの途中であるようだった。みちるは、はるかがこの広い室内のどこかにいることを確信した。いるとすれば、寝室だろう。

 寝室のドアを開けると、真っ暗な部屋から、もわっとした暖気が流れてきた。エアコンの温度をやたらと高く設定しているらしい。明かりをつけると、ベッドの羽根布団が人一人分盛り上がっているのが確認できた。少しだけ安堵して、ベッドの傍に近寄る。布団を頭から被って寝ているその人に、枕元で再び名前を呼ぶ。返事はなく、僅かに身じろぎされただけだった。再び名前を呼ぶものの、顔を見せてくれる気配はない。みちるはしびれを切らして、はるかが顔まで被っている布団をずらした。
 果たしてそこには、はるかがいた。
 しかしどうも様子が変だった。顔はほの赤く、ぐったりとしている。薄目を開けて、生気のない顔でこちらをぼーっと見る様は、病人そのものだった。
「はるか…。 風邪を引いてるの…?」
 はるかはコクンッと頷いた。頷いた拍子に走った頭痛に顔をしかめて、ゲホッ…と苦しそうな咳をし、薄青のシーツの上で緩慢な動作をみせる。みちるは、自分の発言によって起こさせてしまった痛みを申し訳なく思いながら、はるかが楽な姿勢で寝れるように手を貸した。触れ合った額や手からは、異常に高い熱が感じられ、風邪で高熱を出していることが伺えた。
 …考えてみると、当然のことだったのかもしれない。夏の南半球から冬の北半球に舞い戻ってきたばかりの彼女が、体調を崩すという事態は。どこで風邪をもらってきたのかはわからないけれど…。オーストラリアとの気温差は20℃にも及ぶのだから、いくら風っ子のはるかでも、急激な気温変化に対応できなかったのだと考えられた。

 額から手を離すと、はるかがみちるに目を合わせてきた。目は充血して、とろんっとしている。はるかはすぐに目を逸らして、ひどく掠れた風邪声で、苦しそうに話し始めた。
「ごめん…。“休む”って電話し直そう…思ったんだけどっ…、っ…。悪いとも思って…。帰ってきたら、ラジエーターがっ…。…、…イカれて…。さっきまで物凄く寒かったんだけど、…今は凄く熱っ…い…。」
 何やら意味不明なことを口走るはるかであったが、そこまで言うと、咳き込んでしまった。肺の奥から出てくる感じの、心底つらそうな咳。咳がこちらに飛ばないように寝返りを打って、背中をみせて丸まってしまう。みちるが背中をさすると、何やらこちらに申し訳なさそうな様子で、荒い呼吸を少しずつ整えていった。鼻が詰まっているらしく、口でハアハアと息をしながら次第に落ち着いていく。みちるは、はるかが手に握っている体温計に気づいた。はるかの手からをそっと抜き取って、体温計のボタンを押す。"40度9分"という表示記録が現れた。
“え…? 何これ…。40度越えてるわ……。”
 みちるは一瞬目を疑ったものの、何とか平静を保った。これでは試験を受けられまい。ただの風邪なのか、それともインフルエンザ等の別の病気なのかはわからなかったが、これほどの高熱が急に出たことを考えると、後者のような気がしていた。こんなにひどくこじらせているのに、自分に電話して来なかったのは…。はるかなりに“心配をかけたくない”という想いがあったから。「“休む”って電話し直そうと思ったんだけど、悪いとも思ったし…。」というのは、きっとそういう意味の発言なのだろう。部屋をサウナのように暖かくしているのも、一昨日か昨日、ひどい悪寒に襲われて急激に発熱したため。それに病院嫌いの彼女のことだから、市販の風邪薬を買ってきて飲んで、そのまま今まで眠って…。今は悪寒の時期を過ぎて、発熱のピークを迎えている。流石に40度を過ぎた高熱を出しているのだから、“夜間外来を受付けてくれる病院に行きましょう”と提案してみる。しかしはるかは“嫌…”と首を小さく横に振った。しばらく押し問答してみるも、はるかは頑なに拒絶した。
 “仕方がないわね…。”
 悩んだあげく、みちるは明日の朝にもう一度はるかを説得してみることを決めた。もちろん後で牧野に電話をして、明朝一番に海王家の主治医をここに呼んでもらうつもりでいた。そのためにも、今夜は少しでも容態が落ち着くように…。風邪で発熱した分の熱が体にこもらないように、少しだけ薄着をさせて、部屋の温度を下げ、十分に加湿する必要があった。

 そこまで考えたところで、みちるは小さく溜息をついた。風邪をもらうわけにはいかないけれど、看病をしてあげる必要があった。一人暮らしの彼女だから。放って帰るわけにはいかない。…帰りたくない。安心させるように一度笑ってみせ、軽く彼女をたしなめる。
「わかったから…、このまま楽にしていて。薬は飲んだの?」
 はるかは小さく頷いた。しかし薬を飲んだのは一昨日の夜のことだという。昨日から丸一日何もせずに寝ていたのだろうか。とにかく効き目は当に切れているはずで、新たに飲ませる必要があった。そのためには何か食べさせなければ。ずっとこの状態で寝ていたのならば、今日はまだ何も食べていない可能性が高い。尋ねてみると、案の定昨日から何も口にしていないという返事がかえってきた。心の中で苦笑をして、枕元を立った。



 15分後。キッチンでは、小さな鍋とポットで水が沸騰していた。年末からずっと海外に出掛けていたはるかの冷蔵庫の中身は淋しく、生ものは一切置かれていない。あるのは缶コーヒーとお酒、そして長期保存が可能な副食類。戸棚を漁ってみても、スパゲッティや缶入りパスタソース、朝食用クラッカー、固形コンソメ、賞味期限が1ヶ月を切ったパック入りご飯くらいしか見あたらない。何となく、最近の彼女の食生活まで察せられて、思わず苦笑が漏れた。けれども外へ買出しに行こうにも、この吹雪の中を夜歩きしていくのは難しい。館外で待機している牧野に言付けるにしても、あまり詳しく事情を話すと、今すぐ連れ帰られる可能性があった。きっと、“それではお嬢様と入れ替わりで、かかりつけの者を参らせます。天王様のお食事もその際にお持ちいたしますので、じいがお迎えにあがりますまで、どうかお風邪をもらいませんよう…。”と言って、一刻も早く風邪の感染源----はるか---と引き離そうとするだろう。
 だから明朝迎えに来てくれる際に、"後で食事を運んであげて。それからお医者様を…。"とだけ頼むのがベターであり、今夜はどうにかして一人で看病してあげる必要があった。
 仕方なく、ありあわせの物でリゾットを作ることに。まず使う材料をテーブルに並べて、袋の裏に説明書きがついているものについては、一つ一つ熟読していった。…普段料理をする際は、新鮮な素材と本場の調理方法で行っているみちるにとって、今このキッチンにある材料での調理は少しだけ難しかった。大体の調理方法を把握したところで、まず冷凍庫から取り出した"玉葱入りミックスベジタブル"に湯をかけてみた。そしてバターで軽く炒めていく。それからパック入りご飯をレンジで温めて、冷凍庫にあった鮭フレークと一緒に鍋に入れた。鍋に入れた後になって、“パック入りご飯と冷凍野菜は、あたためずに直接鍋に入れておいた方が早く調理できたかも知れない”と気づく。そうやって学習する一方で、戸棚にあった固形コンソメを湯で溶かして、鍋の上で弧を描きながら散らしていった。それから最初に炒めておいた野菜類を鍋に加え、ひと煮立ちさせた。最後にペッパーミルをいつもよりかなり少なめに挽いて、火を止めた。火を止めた後も、しばらくはカット野菜達が煮立てられて、鮭フレークでほの赤くなったスープの中で楽しそうに踊っていた。

 出来上がったリゾットとお茶を持って寝室に戻った頃には、部屋の温度は少しだけ下がっていた。サイドテーブルにトレイを置くと、先ほど部屋を出てから40分経過していることを置時計が教えてくれた。再び枕元にかがみこむ。はるかは眠ってしまっていた。額には汗をうっすらとかいていて、前髪の先を濡らしている。
 みちるは枕元を立ち、洗面所へと向った。タオルと、ぬるま湯を入れた洗面器を寝室に運ぶ。そして湯に浸したタオルをきつく絞って、開き、眠っているはるかの額をそっと拭いていった。

 “ようやく今年初めて会えたのに…。いきなり風邪でダウンなんて、相変わらずね。”
 思いながら、視線を下に移し、閉じられた瞼や整った鼻立ちをみる。3週間前に、飽きるほど一晩中眺めたはずなのに、今はまた、ずっと眺めていたい心境になっていた。みちるはふと手をとめた。先ほどの苦しそうな表情とは打って変わって、眼前の人は穏やかな寝顔をみせていた。室内温度を下げたおかげで、体にこもっていた熱が逃げ始めたことが伺えた。そのことに少しだけ安堵して、はるかの寝顔を鑑賞する。“寝ているときが一番可愛いわ”というと、“何だよ、それ…。”といつも苦笑されるのだが、みちるにとっては、そんな無防備な寝顔を見られるひとときは至福だった。はるかと共有できる、束の間の休息。病人をからかうつもりはなかったが、こんな時でもなければ、使命以外の用事ではるかと一緒にいられる時間はなかった。
 視線をさらに下に移す。唇は熱で赤みを帯びているけれども、潤いを失っていた。その唇に、タオルを持っていないほうの手を伸ばし、軽く触れた。

 不意に、しかしゆっくりとはるかが目を開いた。
 みちるは内心少し慌てながらも、何でもなかったかのように取り繕って、笑顔で話し始めた。
「汗をかいてたから、タオルで顔を拭いていたんだけれど…。いっそ今、体を拭いて、パジャマを着替えておいた方がよくないかしら?」
 みちるの様子を、はるかは然して気にする様子はなく、ただけだるそうに体を動かした。イエスともノーとも取れない相手の反応に、少し戸惑いつつも、思い切って“着替えを持ってくるわね”と言ってみる。それを聞いて、今さら照れ臭くなったらしいはるかは“自分で取りに行くからいいよ…”と起き上がろうとした。しかし熱で体が思うように動かず、ふらついてすぐに体勢を崩した。崩れたはるかを、脇から支えて、とりあえず半身だけ起こさせる。触れ合った頬からは熱い感触が、近まった唇からは吐息が感じられた。残念なことに、いちいち時めいている余裕はなかったが、急に体に触れられても全く驚かない彼女に、いつもとは違った愛おしさを覚えた。

 

 クローゼットから新しいパジャマとシャツをとってきた頃には、はるかはサイドテーブルの鍋の存在に気づいていた。背中を丸めてだるそうな格好で、しかし不思議そうにそれを見つめている。パジャマをベッドの上に置きながら、軽く説明する。
「リゾットを作ってきたの。…キッチンにあったものを少し使ったわ。食欲はないと思うけれど、薬を飲む前には、何か食べておかないといけないから…。少し冷めちゃったかも知れないけど、着替える前に食べる?」
 はるかはコンコンと咳き込みながらも、小さく頷いた。
「…。サンキュ…。 …食べるよっ…、…。…、っ…。」
 みちるはサイドテーブルで鍋の蓋を開け、小皿に数口分よそおった。そしてスプーンを添えて、半身を起こしているはるかの元に持ってきた。はるかはみちるから皿とスプーンを受け取ろうとしたが、その動作はあまりに緩慢で、みていて辛そうだった。
“食べさせてあげなくちゃ…。”
 そう思ったみちるは、はるかの行動を軽く制して、ベッドに腰掛けた。はるかはやはり具合が相当悪いらしく、みちるに食事の介助をしてもらうことを嫌がらなかった。皿の中のリゾットをスプーンで少なめにすくって、口にゆっくりと運んでいく。小さく開けられた口が、スプーンの底をそっとなぞっていく。その動作は、みていてどこか可愛かった。みちるは、少しでもはるかの胃に食べ物を納めさせようと、スプーンを甲斐甲斐しくはるかの口に運び続けた。自分自身は終日テスト漬けでまだ夕食をとっていないことはおろか、自分の分の食事をまだ作っていないことすら、頭の隅に追いやって。
 5 , 6口分くらい運んだところで、はるかは“もういいよ”と言った。鍋にはまだ半分以上のリゾットが残っていたが、体調が最悪な状態にしてはよく食べてくれた方だった。スプーンと小皿をサイドテーブルのトレイに下げ、ティーバッグで作ってきたお茶をすすめることに。マグカップをもって再びベッドに腰掛けると、はるかが咳き込みながらも掠れ声で話し始めた。
「ごちそうさっ…ま…。…、…っ。美味しかったよ…、…。あそこのもので、よくっ……、作れたよな…。」
「そう…。どういたしまして。」
 急に褒め言葉をもらって、頬が少し熱くなる。風邪引きさんのお腹はあまり減っていなかったはずなのに、味だって微妙な部分はわからなかったはずなのに、そう言ってくれたことが嬉しかった。自分まで、ちょっと熱が出てきた気がする。コンコンとまた咳き込み出す彼女の背中をさすって、照れをやり過ごす。
 はるかの咳はなかなか引かず、自分でカップを持って飲むことも困難な状態だった。口元にカップを運んでみるものの、またすぐ次の咳が出て落ち着いて飲めていない。咳をする度に、肺や喉にかなりの負担がかかっているらしく、片手で胸元を押さえて苦しそうにやり過ごしていた。…先ほどのリゾットでは、スプーンで運ばれてきたものを口で濾し取るだけだったから、比較的楽に食べ物を口に入れることが出来た。今度はスプーンの代わりにストローを使う必要があったが、キッチンをざっとみた限りでは見当たらなかった。
 こうなると方法は一つしか残っていないのだが、みちるは少し迷った。“そんなことをしたら風邪が確実に伝染るのでは…”という危惧があったし、何より、“はるかがどう思うだろうか”という問題があった。今日はかなり素直に自分のすることに従ってくれているが、その行動をとろうとした瞬間に“ドサクサに紛れて何するんだよ…”と急に嫌がる可能性もあった。

 しばしの思考の後。みちるは、やはりはるかの風邪を治すことを最優先に据えることにした。もし風邪が伝染るのなら、もうとっくにウィルスをもらってしまっているはずだ。この部屋に来てから何度となくはるかに間近で咳をされたし、厄介事をもらいたくなかったのなら、最初からここに立ち寄っていなかったはず。でも今自分はここにいて、そして少しでも長くはるかの傍にいたいと思っている。伝染ってしまったとしたら、もうそれは…。仕方のないこと。はるかが悪いというよりも、自分自身のミス・チョイスに責任があるのだった。
 みちるは、サイドテーブルに置かれている市販の風邪薬を手にとって、ラベルをみた。アスピリンが入っていないことを一応確認して、薬瓶から一回分を取り出す。そしてお茶と一緒に手にもって、ベッドに再び腰掛けた。…薬を飲むためには、まず胃に食べ物を何か入れて、それから水で薬を流し込む必要がある。“面倒臭い”という理由のために、水なしで薬を飲んだりしたら、食道で潰瘍を起こしかねない。みちるは、自分が今から起こそうとしている行動への理論付けを怠らなかった。ある種の使命感と責任感をもって、初めての行動を開始した。
 ぐったりしているはるかに目を合わせて、静かに口を開く。
「はるか…。薬を飲ませるから…。」
 そう言われても、はるかはまたイエスともノーともとれない態度をみせた。みちるはお茶の1/4くらいを口に含んで、はるかの首筋に手を回した。ほとんど動けないはるかに、咳が小康状態になったところで自分から唇を寄せていく。そして口移しで、液体がこぼれないようにぴったりと唇を重ねて、少しずつ流し込んでいった。肌越しに感じる体温はやはり異常に熱かったが、口の動きは全く緩慢で、むしろ硬い。それでも少しずつ飲んでくれていることを確認して、一度口を離す。視界の下の方で、はるかの喉仏がゆっくりと上下するのが見えた。

 何とか薬まで飲ませ終わった頃には、自分まで少し汗ばんでしまったような気がした。再びひどく咳込み出したはるかの背中をさすってあげながら、火照った自分の頬を冷やす。…考えてみると、自分からはるかにキスをしたのはこれが初めてだ。いつもははるかから…。はるかが、そうしてくれるのを待っているような形なのに。
“たまには、こういうこともあるのね…。”
 はるかとは違う種類の熱に侵されながら、みちるはそう思った。その熱は、決して下がることはない。なぜなら、神様すら治せない病気によるものだから。そのことを、みちる自身よく知っていた。知っていて、治すつもりもなかったし、どうしようもないことだった。
 はるかは咳に発言を中断されながらも、心持ち微笑んでいるような顔で、言葉を紡いだ。
「…。伝染ったら、僕のせいっ…だな…。 …っ、ごめん……。」
 それを聞いて、みちるはまた頬を熱くしながら、“そうね”と言った。

Fin.

イメージ(頬を赤らめるみちるさんの様子)

Picture:daydreamer
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※この作品は、フィクションです。作品中に登場する名称や出来事は、実在の人物や出来事と一切関係ありません。