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今夜の番組チェック


Relaunch
[scene1: Jan.27, 2002 Tokyo
]
初稿掲載日:2002年2月4日 / 最終修正日:2008年7月30日 / 作者:daydreamer

 待ち合わせの時間ちょうどに僕は喫茶店のドアを押した。

 早めに来ることは出来たが、気を揉みながら人を待つ時間を持ちたくなかった。入ってすぐ、並んだサイフォンの向こうにいるマスターに目礼する。マスターは洗い物をする手を止めて、おう、と低い声で挨拶を返す。向かいで煎り豆を袋詰めにする作業に勤しんでいたアルバイトに声をかけ、洗い場の残りを頼んでから蛇口を止める。タオルをとってよく水気を落とし、陳列棚右上のサントス・ストッカーに手を伸ばす。昼下がりに訪れた常連にとびきりの一杯を淹れるべく、サイフォンの一つに火が灯された。

 下町の裏手にある老舗喫茶、この街に来てずっと通い続けている店だ。いつ来ても、哀愁を感じさせるブルー・ナンバーがかかってる。今日はビル・エヴァンスの『Blue In Green』。留学前のみちるも何度か連れて来たことがあったけど…。男の隠れ家のようなこのカフェは、果たしてどう思われていたのだろう。まあ、待ち合わせ場所として指定してきたんだから、一応記憶には残っているようだけれど。
 カウンタの席は空。自然と奥のテーブルのほうに目がいく。
 そうすると、籐柵の向こうに知った後ろ姿が見えた。桜貝色のスーツを着た細身の女性。目線を手元のカップに落としているらしく、こちらにまだ気づいていない様子。僕は唇を一度強く噛み締めて、みちるの待つテーブルへと向かう。 

 テーブルにほとんど近づいたところで、彼女はようやく顔をあげた。最初の一瞬は何か浮かない表情をしているようにも見えたが、こちらに気づいて湯戻し食品並みの速さでさっと笑顔に変わってしまう。僕も自然と顔が綻ぶ。
「久しぶりだね…。」
「ええ、お久しぶり。…元気にしてらして?」
 頷き笑いながら、向かいの席に腰掛ける。久しぶりに目の前で見る彼女はさらに美しさを増し、清楚さと妖艶さの両方を兼ね備えた大人の女性に成長していた。語られる言葉は気品に満ち、より洗練された感性になったことをこちらに告げる。ただ瞳だけは変わらぬ薄浅葱うすあさぎのままであることを知り、何故だかほっと胸をなでおろしてしまう。

 彼女のほうもとても懐かしそうで、こちらの近況をあれこれと尋ねてくる。僕は某モトクロスチームと海外参戦契約を結んで、世界中を飛びまわる日常を送っていることを報告する。みちるはみちるで、6年前に演奏活動を休止して以来、ウィーンやザルツブルグ、ニューヨーク等で日々学を積み続けているらしい。そういえば…彼女が留学して以来、日本のマスメディアから“海王みちる”の姿が消えてしまっている。それは当たり前のことだが、改めて時の流れを実感する。たまには帰って来ないと日本のファンから忘れられるぜとからかうと、幾分苦い顔になりながらも、そうね、と笑い返してきた。

 しばらくして話の種が尽きたのか、みちるは微笑みつつも黙りがちになってしまう。以前一緒にいたときも度々こういうことがあったが、落ち着いた物腰と気品がその無為を何故か意味ある重みへと変化させていた。今も変わらずそうで、喋らない彼女といる空間を苦に感じない。代わりに僕が一人で色々なトピックスに話題を広げると、居心地良さそうに聞き役に徹してしまう。いつの間にか重くなってしまった彼女の口ではあったが、ようやく開いて一言問いかけて来た。
「ねえ、はるか。今日は何の日だか…わかってる?」
「今日? 僕の誕生日だけど?」
 誕生日だけど…。それが、どうかしたのだろうか。僕の年が一つ増えるってだけのことで、別にそれ以上の意味はない。そう思考をめぐらせていると、向かいに座っているみちるの笑顔の中に、幾らか落胆の表情が浮かんでいた。
 みちるは言葉を続けた。
「そう、はるかの誕生日。今年は日曜日ね。」
「そうだな…。出てくる前に事務所から連絡があって『プレゼントとファンレターの山が出来てるから取りに来い』って言われたよ。チームとファンクラブでもパーティーをやってくれるそうだけど、何か面倒くさくてさ。行こうか行くまいかぼんやり考えながら、部屋で酒を煽ってた。でも君から『帰って来る』って電話あったから」
 行くの止めてここに来たよ。
 そう言葉を続けようとする僕に、みちるが一言呟いた。
「……、…バカ。」
「?」
 唐突に罵られ、はるかは少し面食らう。いつの間にか少し怒ったような顔をになって、彼女は自分から視線を背けていた。瞳の光は強く、幾らか哀しげに揺れている。何か気に障ることでも言ったかと、先述の内容を反芻する。いや特に思い当たることはない。
「…失礼します。」
 気づくとマスターが隣に立っていた。いつもより何だか真面目くさった顔をして、トレイ上のカップサーバーを持ち上げる。それで思考が一時中断され、さっきの言葉の真意を追うことを止めてしまった。

 マスターが去ってサントスを少し口に含んだ頃には、僕は彼女に関わる別の話題について考え始めていた。
「そういえば、そっちの冬は東京より寒いだろ? 君、けっこう寒がりだった気がするんだけど…。大丈夫?」
 みちるは一瞬慌てたような顔をした後、すぐ元の笑顔に戻って話し始めた。
「…。そうね、何とか慣れてきたわ。もう少しすると色んなお祭りが始まって、春も見える形でやってくるし…。大丈夫よ。」
 会話は、みちるの留学生活や共通の知人のことで幾らか弾んだが、その後何故かまたみちるの“微笑みつつもだんまり”が始まってしまう。疲れているのかなと推察して、喫茶店を出て自宅まで送ることを提案する。彼女は幾分困った表情になって、今日の残りの日程を明かす。一時帰国を祝そうと後援会が20時から赤坂のホテルで晩餐会を企画していて、どうしても顔を出さなければいけないらしい。けれどもそれまでは時間があるから一緒にいましょう、と言う。今は15時過ぎ。20時前までに晩餐会会場に送り届ければいいわけだから…。それまで、久しぶりの日本を存分に楽しんでいってほしい。



 車を出して海沿いのコースを走る。日程的に、日本滞在中は今日ぐらいまでしかゆっくり出来ないはず。遠出は無理だが、近隣の海岸くらいなら車窓から見せてあげることが出来る。カーナビよりも培った走行経験を重視して、一番早く海に出るルートを割り出してひた走る。助手席のみちるとは他愛もない会話が続き、話は日本の現在についてまで及んだ。外相の名前がまた変わったことくらいしか知らなかった自分に較べ、海外在住のみちるのほうが現政権の問題点や時事問題にずっと詳しかった。僕は何度も苦笑いする羽目に遭いながら、海沿いへの最短走路をひたすら走り続けた。

 2時間近く走った頃、左手にようやく砂浜が広がってきた。既に夕刻で、海は残照を受けながらまばゆい光の波を作っていた。それをフロントガラス越しに二人で眺める。浜辺に降りるかと尋ねるが、彼女は首を横に振る。
「外でのんびりしてみたいけれど…。そうしたら、今日はもう帰れなくなってしまうわ。それに冬の海は…。見るからに、寒いわ。」
 そう言ってみちるは、シートに姿勢良く座ったまま遠くの海を眺め始める。僕も夕海へと目を落ち着かせる。
 冬鳥の飛来を目で追いながら潮風の流れを感じる夕暮れ。もうしばらくすると、冬の星座たちが煌びやかに空で踊り始める。ネオンは遠く、目に入る光はどれも優しい。久しぶりに見る夕海が、旅の疲れと滞在中の心労を少しでも癒すことを願いながら、束の間の共有時間を言葉もなく送っていく。小一時間ほどそうしていた後に、助手席のみちるがゴソゴソと何か探し始めた。ファンデーションのお直しでもするのかな、と大して気にもせず夕刻の海模様を追い続ける。
「はい。」
 いきなり呼びかけられて視線を移すと、みちるが黒くて細い上等そうな小箱を差し出していた。
「ん、何これ?」
「今日はあなたの誕生日だから…。プレゼントよ。」
 予期せぬ立派な贈り物の登場に、僕は少しリアクションが遅れてしまう。嬉しいのと同時に、少し申し訳なくもなる。忙しい日程の中で、気を使ってわざわざ用意してくれていたとは。もしかしたらまた貰いの品かも知れないが、誕生日をまだ覚えていて祝ってくれたことが嬉しかった。
 
 開けてみて、と言われて包装を解くと、中からファントムクリスタルを下げた細い首掛けが現れた。取り出して陽光にかざすと、透明なクリスタルの中に小さな水晶の入れ子が見えた。幻想の中で見るガラスで出来たピラミッドのよう。カット面に清清しく透明な虹を幾つも生じさせ、空間の中に神秘的な美を形成している。僕はしばらく心を奪われる。
 ふと、下げ紐と宝石とを繋ぐ覆い金具裏面に、何かとても小さな文字が刻んであることに気づく。不思議に思って彼女の方をちらっと見るも、彼女はただ柔らかく微笑んでいるだけだった。僕は好奇心が頭をもたげてすぐ文字解読を開始する。クリスタルの底辺部を回したり透かしたりして文字内容を探ってみる。どうやら外国語で彫られているらしい。

 程なくして解読に成功したが、同時に予期せぬ驚きも生じてしまう。
 『meine liebst Haruka』
 ―――私の愛するはるか

 あっちで買ってきたもの。それから、このメッセージは……。
 考えをまとめようとしていると、右隣でちょっと悪戯めいた笑いをするみちるが口を開いた。
「はるかがあんまり装飾具をつけたがらないのは知ってるけど…。たまにはそれを付けて、お洒落してちょうだいね。」
 ありがとうと笑い返して、ジャケットの内ポケットにしまい込む。
 時計を見ると、そろそろ海を離れなければいけない時間。十分に喜びを表現する時間がないことを悔やみながらも、夕闇の中に愛車を発進させる。



 海辺からの帰路。右肩に、こつん、またこつんと少しずつ当たっては戻っていく何かを感じる。ふと確認する。翡翠色の髪に見え隠れする少し白い顔。ドライブで疲れたらしいみちるが、静かに眠っていた。滞在期間が短いとはいえ、帰国した翌日に予定外の人と密会して疲れたことだろう。予定外…。もしかしら最初から彼女のスケジュールに組まれていたことかも知れない。けれどもそう考えてしまうのは、己の中に潜む驕りの表れでしかない。彼女はプライド高く卓越したプロのトップ・ソリストなのだ。昔燃えるような恋をした相手のバースデーだからと言って、現状のステータスを放棄して追いかけて来るような人ではない。現に去年は…。
 つまらない思考に精を出しつつも、片手でハンドルを切りながら、次第に闇の降りゆく帰路をひた走った。



「着いたよ、みちる。」
 結局ずっと眠ったままだったみちるは、はるかの声でようやく頭を上げた。メインゲート・ドア付近では畏まったボーイ数名が、来客の応対を絶え間なく続けているのが見える。
「ん…ごめんなさい。せっかくのドライブだったのに、半分寝てしまっていたのね。」
 笑って首を振り、助手席に回ってドアを開ける。スタイルの良い細身の体が、音もなく夜の赤坂に降り立った。
「久しぶりに会えて、嬉しかったよ。」
「ええ、私も。お会い出来て嬉しかったわ。」

 お互いに去りがたいような送りがたいような、後ろ髪引かれる思いが交錯する。ここで別れた後に再び会う日は、いつ来るのだろうか。二人とも海外を飛び回っているとはいえあまりにも忙しく、日程的にきっとすれ違うばかりであろう。もう二度と会うことはないのかも知れない。思えば思うほど苦しくなってきて、僕から別れの言葉を切り出してしまう。
「元気で。」
「…ええ。あなたも元気でね。」
 幾分淋しそうに頷き笑って、みちるはホテル正面入り口へと続く階段を上り始めた。僕は少しの間車に背を預けて、彼女が去っていく様を見送る。ふと、玄関フロント最下部の階段を半分くらい上ったところで、彼女の足取りが止まった。振り返って進行方向を変えてしまう。おやっと思って、そのまま彼女を観察する。みちるは幾分伏目がちに、今上った階段を降り始める。忘れ物か…? いや所持品のハンドバックはちゃんと肩にかかってる。

 もう一度現れたみちるからは、何か少し決意めいたものが見えた気がした。僕は少し身構える。ようやくあげた顔は今にも泣きそうに歪み、そのまま無言で自分の胸へと押し付けられた。僕は少し慌てつつもみちるを静かに抱きとめる。…再会の約束がなされない、あるいは出来ない別れほど、辛い別れはない。お互いのぬくもりを忘れまいと、冬の夜空の下でしばらく抱き締め合った。みちるはずっと何か口篭もっているようにも見えたが、結局何も言わないまま自分に体を預けていた。
 ようやくみちるが顔をあげる。
 体を離して、先ほどと同じように淋しそうに笑いながら、一言送る。   
「…。またね。」
 そう言うと彼女は、今度は立ち止まらずに正面入り口へと消えていった。>>NEXT
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