| 目覚めると、一人。自分一人の体では余りすぎるキングサイズのベッドで、今日もまた身を休めている。外は雨が降っているらしく、閉め忘れた窓から冷たい水音が届く。日中はいつも防音設備が行き届いた学校にいるから、雨音は聞こえない。学校が入っているビルには窓が少なく、周囲をコンクリート塀に囲まれているから、練習に集中していると外が晴れか曇りかさえもわからなくなる。でも今は、たしかに雨音を聞いている。 薄闇の中、みちるはひとつ溜息をついた。ニューヨークに来て2年半。演奏活動を休止してからは、もう5年も経つ。日本と外国の音大を行き来し、学に追われる日々。ギャラクシアとの死闘が終結した後、プロに進むために自ら選んだ道だった。 学んでいることは楽しい。けれどそろそろ、自分なりの道を模索しなければいけない時期。ソロ、室内楽、それともオーケストラか。せっかく勉強した作曲のほうも、出来れば生かしたい。けれどもプロの世界は、そんなに甘くない。演奏家としてやっていくにしても、常に自分の音楽を表現していくことが要求される。5年前の自分のように、もう発表会気分では、コンサートに臨んではいけない。あのときの失敗が、それから5年という修行期間を自分に課したのではないか。同じ過ちを繰り返すくらいなら、音楽を捨ててしまったほうがまだましだ。 ソリストとしてのプロ・デビューに誘いをかけてくる複数のマネージメントも、これから一層慎重に選別していかなくてはならない。無論…実力でなく実家の名前では、決して評価されたくはない。 考え出すと気ばかり疲れて、またひとつ溜息をつく。雨音を追って目をやった窓では、カーテンが頼りなく揺れていた。その静やかな揺れは、寝覚めの頭を優しく刺激してくる。目の奥で、先ほどまで見ていた夢の残像が、フラッシュバックしては消えていく。 今日の夢はひどかった。
疲れる夢だった。こんな夢を見たのは、何年ぶりだろう。 いつもは夢なんて起きたら忘れてしまうのに、今日の夢はまだよく覚えている。 …波。黒い大波。そういえば何年か前も、こんな風に夢見が悪かった時期があった。けれどあのとき見ていた夢では、雨は降っていなかった。人だって、もっとたくさん出てきたではないか。 考えを進めていると、額の奥に急に鈍痛が走った。手指で軽く揉み解しながら、外の雨音を聞く。手のひらを額につける。少し熱い。窓を開けたままだったから、風邪を引いてしまったのかも知れない。 額に、何か弾力性のあるものが当たった。柔らかな革の感触。目線を合わせると、腕時計の革バンドがぼんやりと見えた。腕には、昨日来ていた服の袖が通ったまま。ここしばらく、学内の卒業リサイタルのリハと定期試験に追われて、ずっと根を詰めた状態だった。ようやく今日の午前中で一区切りついて帰宅し、一休みしてからシャワーを浴びようと思ったまま…。結局今まで寝入ってしまっていた。狭い寮生活からやっと解放されて、ちょっと気が緩みすぎていたのかも知れない。 …"新入生は、全員入寮のこと"。 欧米の大学では、よく見かける規則だ。高校まで自由気ままにやってきた若者達は、大学で親元を離れて集団生活を経験し、人間関係と学問の両方を学んでいく。みちるが選んだ学校にも、この倣いがあった。常に独特の緊張感が漂う音楽院を出て寮に戻ると、6畳一間の部屋を2人でシェア。住めば都。たしかに、色々なことを学ばせられたひと時ではあったが…。ずっと広い空間に住み慣れていたみちるには、心身共にかなり堪える経験だった。自宅通学を許されて最初に買い揃えたものが"出来るだけ大きなベッド"だったことを思い出すと、やはり相当参っていたと言えるだろう。 何気なく腕を返すと、腕時計のリングが目にとまった。CITIZENのカンパノラ・コレクション、コスモサイン。若い男性に人気がある時計だが、特別注文で女性向けにアレンジし直してもらったものだ。もうずいぶん前にもらったもので、あちこちに小さな傷が入っている。目の前にかざし、見るともなく眺めてみる。 星座盤をあしらったそれは、ブルーの漆文字盤上に星座名が入っていて、本格的に小宇宙を表現した一品。“時”の原点である“星”をテーマとし、過去から未来まで地上のあらゆる“時”を見つめることをコンセプトとしている。文字盤には、星座盤と月齢表示盤の2タイプがあったようだが、これをくれた人が選んだのは星座盤のほうだった。天文ファンならいざ知らず…一介の音楽学校生が身に付けるには、少しマニアック過ぎるデザインだ。 けれども日本を離れてからは、こうする時間が多くなった。演奏会やパーティー以外では、いつもこの時計をつけている。他の時計でもいいのだが、この時計を付けているときが一番落ち着く。 文字盤を覆うサファイアガラスに指で触れ、そっとなぞる。時計をくれた人のことを想う。♪ みちるがはるかに別れ話を切り出した日も、外は雨が降っていた。タリスマンが初めて現れた日も、はるかの自宅を出る直前まで、やはり雨が降っていた。雨は常に、別れの象徴として自分達に降りかかってきていた。 別れは、お互いの未来のためには必要なことだった。お互いに世界を股にかけて飛び回る職業を目指していたし、そのために一刻も早く本格的トレーニングを再開しなければいけない時期にきていた。はるかもそう感じていたようだったが、口に出すことはしなかった。みちるもなかなか言い出せずにいた。それは、お互いに弱くなった証拠。長きにわたる共同生活が過度の依存関係を形成し、冷静な判断力と行動力を奪うまでになっていた、ということだった。 だから心に鞭打って、自分から切り出したのだ。“知り合う前の状態に戻りましょう”と。 別れても恐らく、想いを消すことは出来ないだろうということは、わかっていた。あれだけ深く愛してしまった人のことを、淡い夢事のように忘れることなんて出来はしない。無意識にも意識的にも、いつも頭のどこかにあの人の面影が巣食っている。だから遠くからただ見つめることを、思いついたのだ。時々こうやって、時計を見つめて。 ―――はるか。 不意に、携帯電話が鳴った。起き上がってサイドテーブルに手を伸ばし、バックを探る。ディスプレイを見ると、メッセージが表示されていた。 「PM8:00- MET. La Traviata」 数日前、スケジュール機能に自分で入れたメッセージだった。腕時計を見ると、7:00を少し回ったところ。頭が完全に醒める。甲斐のない感傷に浸っている自分を馬鹿らしく思う。右手で時計を覆い、軽く握り締める。 今夜は、メトロポリタン歌劇場にて『椿姫』のシーズン初演が行われる日。有名な首席客演指揮者と舞台演出家の共演とあって、チケットは早くからはけていた。大学の生協で運良く学生チケットを手に入れたみちるも、この初演をとても楽しみに待っていた。少し寝過ごしてしまったけれど…急いで家を出れば、まだ間に合う。まっすぐ鏡台に向かい、簡単に身繕いをする。食事をしている暇はない。幸い空腹感はなかったので、すぐに玄関に向かう。掴んだショルダーバックを肩に掛けながら、玄関ドアノブを急いで回そうとする。 静電気がぱちっと音を立てたが、手を止めずノブを回しきった。 アパートの玄関を出て、ふと気づいたことがあった。 外は雨。慌てて出てきたものだから、傘を忘れて来てしまっている。Uターンして取りに帰ろうと、ストリートに背を向ける。その時ふと、あるものが目に入った。もう一度路地に向き直り、それを確認する。 今目の前を走り去った、ドゥカティのMonster。あの色、あの形。あの人が乗っていたバイクに似ている。乗っている人も、はるかと似たような体形で…女性に見える。フルフェイスのヘルメットのせいで、顔まではわからない。 …まさか、はるかもNYに来ているのだろうか。先生が本校にいらっしゃる現状では、その可能性も否定できない。…河内先生が、はるかの両親亡き後の身元引受人であることは、みちるもよく知っていた。はるか自身の口から聞いたことがあったし、本校でお世話になる以前にも、しばしばお会いする機会があったから。 黒のライディングスーツに身を固めたMonsterの持ち主は、交差点の運転者用信号に従って停車した。普通なら走り去ってしまうポイントだが、道路を横断する傘差し歩行者が複数いたため仕方なく停車したらしい。みちるはアパートの玄関階段を下り切り、車道のそばに立って交差点方向を見つめた。上気した肌の上で、秋の冷たい雨粒が一時だけ温度を失っていた。雨音が、一時の間だけ周囲の雑音を掻き消す。 ―――はるか。 けれども乗っている人の判別は難しかった。みちるの立つ位置からは、その人の後ろ姿しか見えない。それでも諦めきれず、上向き加減に首を伸ばした。左顎の痣を髪で隠すことも忘れて。 …もし、はるかがNYに来ている可能性があっても、そうそう簡単に遭遇出来るはずはない。この街は広い。似たような人も、似たようなバイクも、山ほど存在する。そうわかっていても、心のどこかで一分の望みをかけている自分がいた。 ぞろぞろと歩いていた傘差し歩行者がようやく掃けた。 交差点の運転者用信号が赤から青に変わる。バイクは程なく発進し、ライダーはギアを一つ蹴り上げた。雨の中、憑かれたように交差点方向を見つめていたみちるは、その事態に慌てる。走り去る後姿はすぐに他の車に隠れ、途切れ途切れに見え隠れしながら、曲がり角に消えていく。その模様を、みちるはただ動けずに見守っていた。 ストリートを行く人々の話し声で我に返る。慌てて、腕時計を確認する。時計の短針は、もうだいぶ7から8に近づいていた。…開演時間に間に合わない。甲斐のない感傷に浸っていた自分を、心の中で再び叱りつける。諦めて、一つ大きな溜息をつく。 秋雨は次第に冷たさを取り戻し、みちるの白肌を震わせ始めた。 Fin. |
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