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今夜の番組チェック


Soul Lament
初稿掲載日:2004年1月11日 / 最終修正日:2005年1月21日 / 謹呈:彩歌様 / 作者:daydreamer
「働きバチの仕事の一つに、“外敵への攻撃”というのがありますが…。実は働きバチには、巣に外敵がやってくると迷わず向っていく者と、コソコソと巣の裏に隠れてしまう者の二種類がいます。前者は、ミツバチの脳に特異的な変化が起こっていて、その変化には特殊な遺伝子が関係していることがわかりました。この遺伝子が発現しているミツバチは、攻撃性を持ちます。我々はその遺伝子を“KAKUGO遺伝子”と名づけて研究を続けています。“KAKUGO”は、日本語の“覚悟(かくご)”から採りました。もしこの遺伝子を不活性化することが出来れば、ミツバチによる刺害は減り、人間がより産業利用しやすくなるのです…。」

 無限学園の大講堂では、午後から講演会が開かれていた。四年前に焼失した遺伝子工学研究所再建を祝って、著名な分子生物学者を招いての記念講演。学園の中には、この方面に進むことを望む者が多い。学校側も午後からの全授業を休講にして、生徒・職員ともに聴講の機会を与えていた。もちろん自由参加だったが、大半の者が参加していた。
 はるかは別に聴かなくても良かったのだが、みちるを待つ時間潰しのために聴講参加していた。コンクールや個展の制作等で忙しいみちるは、常に授業受講回数が不足している。だから休講時間帯を利用して、専任講師とマンツーマンで特別補講を受けているのだ。はるかもそれは同じだったが、今日はたまたま補講日から外れていた。壇上の講師が操るパワーポイントが、次なる説明画面を大型スクリーンに伝送する。ミツバチの脳の断面図が、スクリーンにでかでかと映し出された。

―――“KAKUGO遺伝子”か…。

 何でもない単語だったが、妙に耳に残った。…シルバーミレニアムの科学技術がどれくらい高度なものだったのか。それは、現世の自分に残されたわずかな記憶だけでは窺い知ることが出来ない。ただ、もしかしたら、セーラー戦士として目覚めた自分の体にも、そういう遺伝子が予め組み込まれていたのかも知れない。もともと自分が戦士になることは、前世からの宿縁で定められていたこと。ずっと体の中で眠ってた遺伝子は、サーキット裏で化け物に殺されそうになったとき、初めて発現した。あのとき強く抱いた死への自覚――覚悟――が、遺伝子を発現させる“刺激”だったのかも知れない。変身スティックも、それに呼応するかのように出現した。セーラーウラヌスとしての現世ここでの役目が終われば、またその遺伝子は“転生”という形で来世に受け継がれていく。…人を殺せるほどの、すごい力。それが遺伝子の上に乗って、延々と受け継がれていく。
 そして。そんな強大な力を自分の体に組み込んだのは。他ならぬ、クィーン…

 壇上のマイクが、キィーーンという耳障りなノイズを放った。
 は、と我に返る。みちるが人を殺す事件があってまだそう日が経っていないせいか、はるかの思考は自然とダークな方向に流れていっていた。いけないいけないと自省し、頭をブンブンと振る。後ろに座っていた生徒は、はるかの様子を見てちょっと驚いた。

 講演開始から1時間経ったところで、10分休憩が入った。はるかは席を立ち、そのまま大講堂を後にした。これ以上聴き続けても、居眠りを始めるか、良からぬ空想に耽るだけだ。下足に履き替え、隣接するビルのコミュニケーションフロア噴水前まで歩いてく。9月とはいえ、昼間はまだかなり気温が上がる。水音を聴きながら、静かに午睡を楽しみたい。そう思って噴水の縁に辿り着き、腰掛けてまどろみ出す。はるかは浅い眠りに落ちていった。

「…さん。天王さん。」
 頭上に降りかかってくる声に、はと目を覚ます。顔を上げると、目の前に茶色い紙袋をもった女の子が立っていた。中等部の制服。小柄で、肩までの黒髪。だが見覚えのない顔だった。
「天王はるかさん、ですよね?」
「そうだけど。」
 やや寝ぼけた頭のまま返事をすると、女の子は紙袋を差し出した。
「あの、これ。受け取ってもらえませんか?」
 茶色い紙袋から、微かに甘い香りがする。甘いものが苦手なはるかは、一瞬顔を強張らせた。…この人も、大講堂の記念講演会を抜け出してきたのだろうか。いきなり現れて、自己紹介省略でプレゼントを渡してきた。そういう女の子は時々いるが、大抵は緊張し過ぎてそうなってしまう。けれどこの人の場合は違う。むしろ人懐っこい笑顔で話し掛けてくる。はるかはぽかんとしていた。

「チョコクッキーを焼いてきたんです。甘いもの、お好きですか?」
「…。クッキーなら、何とか。」
「あ……。そうだったんですか。ごめんなさい、知らなくて。」
 女の子は済まなそうな顔をして、紙袋をひっこめようとした。それを見て、はるかはほとんど反射的に口を開いた。
「いいよ、もらうよ。…わざわざ焼いて作ったんだよね?」
 確かめるようなはるかの口調に、女の子は即答せず、少しの間沈黙した。はるかは女の子の反応を待った。いくら甘いものが苦手とはいえ、クッキーを焼くのに掛けた手間暇を思うと、無下に断ることは出来なかった。
「…はい。ありがとうございます。」
 女の子は、少し頬を赤らめてそう言った。もらう自分よりに先に“ありがとう”と言ってきたことに、内心苦笑する。紙袋を受け取って、きちんと礼を言った頃には、頭からだいぶん眠気が抜けていた。
「哲学クラスの土橋どばし未友希みゆきです。いつも海王みちるさんと一緒にいらっしゃるから、話し掛ける機会がなかったんですけど…。今日はお一人でいらしたから。」
「敬語使わなくていいよ。同じ学年…なんだよね?」
「はい。でも天王さんは、自分より何だかずっと大人びた方に思えて。」
 全然敬語を崩す気配のない土橋未友希は、ちょっとはにかみ笑いをした後、はるかの隣に腰掛けた。それから、みちるを待つまでの小一時間。はるかは他愛もないインタビューに答えて、時間を潰した。



 それからしばらく、はるかはレース関係で学校を欠席することが重なった。自宅に戻ってきて、久しぶりに関東近郊のレースに参加したとき。キャンピングカーにモトクロッサーを仕舞って車外に出ると、見覚えのある顔が立っていた。土橋未友希だった。いつもは付き添ってくれるみちるは、季節の変わり目で体調を崩して、そのときは来ていなかった。…たしかに無限学園内には、自分を応援してくれる女の子が他にもいる。けれどそれぞれが才女であり、忙しい日々を送っている。自分の時間を割いてまで、わざわざレースを見に来る娘はほぼ皆無。それなのに土橋未友希は…。
「優勝おめでとうございます。間近で観戦して、すごく興奮しました。」
 タオルやちょっとした食べ物やら、何だか準備良く持ってきているらしい彼女は、帰宅の準備をするはるかをタイミング良くサポートし始めた。いつもなら、みちるがやってくれること。はるかは極力遠慮しながらも、世話好きな彼女に少しおされ気味になっていた。帰り際。キャンピングカーの座席は、生憎詰まっていた。師匠と自分の分で。「ごめん」と言うと、元々バスで来たからいいです、と明るく返事された。


 三度目。土橋未友希が現れたのは、はるかの行きつけのバイク屋だった。みちるがレッスンで来られない日であることを知ってか知らないでか、ちょうどその日に現れた。なかなかアタックの激しい子だなと少し参っていると、差し入れのハンバーガーを渡された。オヤジさんの分も買ってきているらしく、早速手渡している。オヤジさんは照焼バーガーを嬉しそうに受け取った後、はるかに小さく耳打ちした。
「いつも来てるカノジョには、内緒にしとくからな。」 
「! …、…。…」
 たしかにみちるに知れたら、ヤバイことになる。しばらくは冷たい口調であしらわれること必至。ここにも、しばらくは来なくなるだろう。幸い、今のところ二人は鉢合わせていない。後は、オヤジさんの口がカタイことを信じるしかない…。
 いや、その前に。自分はなぜ、土橋さんの好意をきちんと断ることが出来ないのだろう。みちるというパートナーがいるのに。生来の中途半端な優しさで、フリークの女の子に接してしまっている。…土橋さんは、自分とみちるの関係を知らないのだろうか。いや、多分…。ぐるぐると自問自答しながら、差し入れのフィレオフィッシュを頬張る自分がいた。


 四度目。今度は練習サーキットから自宅に帰る途中で、土橋さんに捕まえられた。帰り道、いつも休憩をとる公園の、いつものベンチで。地理的には、川一つ隔てて無限学園のすぐ裏手にあたるところだ。ここはちょっとした穴場で、朝夕以外はいつもほとんど人気がない。だから練習帰りに好んで通っていた。…みちるは今日は、海王グループ主催のパーティに行っていて、終日会う予定がない。
 土橋さんはそれを知ってか知らないでか、みちるのいないときにまた現れてしまった。それ以前に、この公園を知っていること自体、驚きに値した。他のフリークのコで、ここまで追いかけて来た人は、今までいなかった。今日もまた差し入れを持ってきたらしく、コップに注いだコーヒーを差し出された。もちろんブラックで。砂糖やミルクを入れないことを、なぜこの人は知っているのだろう…。半ば呆れつつも、それを受け取る。飲もう、としてふと手を留めた。
 もう、きちんと断わらなければいけない。このままずるずると付いてこさせるのは、お互いにとって良いことではない。…それにもしいま異常事態が発生したら、そのとき自分は彼女を守り通せる自信がない。すなわち公私共に、土橋さんをこれ以上自分に関わらせるのは、危険なのだ。はるかは太腿の上にコップを置いて、重い口を開いた。
「あのさ。こうしてくれるのは嬉しいんだけど、僕は」

 そのときだった。闇の中、後ろ手の川のほうから爆発音が聞こえた。はるかはベンチから立ち上がり、川のほうを振り返った。土橋さんはまだ腰掛けたまま、驚いた表情で川のほうを見た。それから川はわずかな時間だけ沈黙を保った後、突如大量の水しぶきを公園内に噴出してきた。その直後に、我が目を疑うような高波が公園に乗り上げてきた。川辺に近いベンチに座っていたはるか達にも、容赦なく襲いかかる。すぐ隣から土橋さんの悲鳴が上がったが、体を大波に洗われるうちにその声は途切れた。はるかも波にさらわれかけたが、咄嗟に公園中央のクスノキの巨枝にしがみつき、持ちこたえた。しばらくすると波は威力を失い、水が引き始めた。それに気づいたはるかは、しがみついていたクスノキの巨枝の上によじ登った。変身スティックをスタンバイし、躊躇うことなく変身の言葉を叫ぶ。程なく、金色のエナジーがはるかの体を包み始めた。

 ウラヌスとなって再び地に足をつけたとき。公園内は、何か白いもやのようなものが立ち籠め始めていた。一面が白く染まっていく中、土橋さんの姿を懸命に探す。…さっき自分が座っていた川沿い付近には、すぐ後ろの防水林が倒れ込んでしまっている。重なり合った倒木の下には、ひっくりかえったベンチが見えた。ウラヌスは土橋さんの名前を叫んで、ベンチ前まで猛ダッシュをかけようとした。と、そのとき、ベンチ上の倒木の山が、ぐらりと大きく動いた。スタートダッシュをしようとしていた左足を、反射的に踏み止まらせる。
 倒木の山は程なく崩れ落ちた。
 そしてその中から、白靄を破って、見たこともない怪物が出現した。
 ぷるんっとした体表面。鼻をつく腐食臭。すぼんだ口の上に、どろんとした一つ目。長い尻尾の先端は公園内敷地からはみ出して、川のほうに垂れていた。体長は、見えている部分だけでも3メートルはあるだろう。たとえれば巨大ナマコのような、のっぺりとした縦長。通常では考えられない生物だった。

―――やはり学園内の研究施設から…?

 それ以上推測を進める間はなかった。怪物は体全体をモコモコと脈打たせて、口らしき部分から、透明な粘液をウラヌスめがけて飛ばしてきた。咄嗟にかわすと、それはウラヌスがいたすぐ後ろの樹木にべっとりと付着した。すぐに付着粘液は、樹皮の上でシュウシュウと音を立てて白煙を上げ始めた。まもなくして白煙の下から、急速に黒ずんだ樹皮が現れた。
 思わず目を見開く。塩酸、硫酸、濃硝酸…そんな可愛い劇物じゃなくて、明らかに毒物の症状を呈していた。変身していなかったら、とっくに揮発成分でやられていただろう。…それに毒物なら、少しでも体に付着すれば、ただでは済まない。もし皮膚に付着すれば、変身していても体内で血液が沸騰する程度のことは起こるだろう。考えただけで、冷や汗が出る。あたりに立ち込める白靄が、また一段と強くなった。
 敵はウラヌスを捕獲しようと、本格的に攻撃を開始した。ウラヌスはそれを巧みにかわしながら、敵との直線距離を測っていく。逃げ続けるだけでは、ただ体力を浪費するだけ。機を見計らって、敵との間合いを一気に詰めた。そして敵本体への直接攻撃を開始する。頭部、腹部、尾部。ひととおり攻撃してみてわかったことは、どこを叩いてもほとんど手応えがないこと。しかも体を攻撃すれば一層粘液を吐くばかりで、どうも有効なダメージを与えきれていないようだった。白靄の中、着地点を探しながら、空を舞って応戦を続ける。

 何十回目かの粘液攻撃をかわして高くジャンプしたとき。突如敵の尻尾がぐりんっとこちらを向いた。視界が極端に悪い状況下で、ウラヌスは目を少し見開いた。靄が不意に途切れたとき、尻尾の先端が思い切り割れて、中からノコギリ歯様の鋭く光るものがずらっと見えた。

―――なっ…?!! 後ろにもう一つ口がある…?!

 一瞬、我が目を疑ったが、やはりそこには鋭い犬歯が待ち構えていた。そして犬歯の上には、頭部と同じような一つ目が付いていた。…実は尻尾と思っていた部分のほうが頭部で、今まで怪物は後ろ向きでこちらと戦っていたのだった。頭部を川のほうに垂らして川水を飲み込み、胴体をポンプ代わりにして、尻尾から体内で合成した強酸性の毒物をジェット噴射していたのだった。散々逃げ回っていた獲物---ウラヌス---がようやく射程範囲内に入ってきたため、それを食べるべく、初めて前向きの体勢になったのだった。
 ジャンプの着地予定地点に待っているのは、鋭い犬歯が並ぶ大口。風を操って着地ポイントを変更しようとするも、白靄に含まれた微粒子物質があちこちで勝手に乱流を起こし、ウラヌスの制御感覚を狂わせた。…着地点を変えることは不可能。覚悟を決めて、右手にパワーを集中させる。
 必殺技のエネルギー球を叩き付けるのは、地面でなくて敵の口の中。
 もちろんそんな至近距離で技を放つのは、危険極まりないこと。もし作り出したエネルギー球を至近距離で命中させてしまったら、必殺技自身が放つ衝撃波をウラヌス自身もまともに食らうことになる。また、命中後に敵から返されるリアクションも、完全には予想できない。わかっていることは、体の中に強酸性粘液のもととなる物質を持っているということ。もし技を食らった敵の体が破裂することがあれば、至近距離にいるウラヌスも大量の強酸を被ることになる。
 しかし躊躇っている暇はなかった。何もせずに食われるより、自分の運に賭けて勝負に出たほうがずっとましだ。程なく、至近距離からのワールド・シェイキングが放たれた。

 けたたましい爆音が、再び夜の公園に鳴り響いた。金色のエネルギー球は、怪物の口の中に勢い良く飲み込まれ、その体を内部から破壊していった。そして程なく、内側からまばゆい閃光を放ちながら、四方八方に破裂していった。飛び散る強酸はウラヌスにも降りかかり、自身が放った技の衝撃波と爆風によって、容赦なく吹き飛ばされた。

「ウラヌス!…ウラヌス!」
 それからあまり時間が経たないうちに、公園にネプチューンが現れた。みちるは海王家主催のVIPパーティーに出席していたのだが、どうにも収まらない胸騒ぎを感じて、人目を盗んで中座してきたのだった。はるかの居場所は、二人が持っている通信機のGPS機能/発信機機能を使って突きとめた。
 公園内は、あたり一面が白く煙っていて、異様な刺激臭が立ち込めていた。変身していなければ、恐らく耐えることが出来ない臭い。そのうえ人ともそれ以外とも判別しがたい肉塊があちこちに転がっている。と、川縁の近くに、一際大きな肉塊が二つほど見えた。そこまでの道筋をディープ・サブマージで拓き、細心の注意を払いながら歩み寄る。近づいても、肉塊は全く動く気配がなかった。生々しい惨状に、背筋に冷たいものが走る。右手で左腕を強く掴んで、震える体を押さえつけた。…時間はあまりない。人が来る前に、ウラヌスと合流しなければならない。意を決して、目の前にある肉塊の判別を始める。
 一つはただの肉塊。生物由来のものだが、人間のように整った骨格を持っていない。恐らく、この公園を襲った怪物の死骸だろう。もう一つの肉塊は…。どうやら本当に人間のものらしく、かろうじてその外形を留めている。全身の皮膚が黒ずんで膨れ上がっていることから、弗化水素酸の類を浴びたのだろうと思った。ただ、それ以上の推察は難しかった。うつぶせに倒れていて、服や髪も顔もほとんど溶かされているため、性別すら判別しがたい状況だった。
 ネプチューンは腰が砕けるような錯覚に陥った。

―――まさか、これは…。
 頭が真っ白になって座り込むネプチューンの前方に、木が薙ぎ倒されてよく見えるようになった川が広がっていた。半ば放心し始めながら、夜の黒い川に目をやる。対岸にある無限学園の建物からは、校章“∞”がライトに照らされて川面に映っていた。川面に浮かぶ校章を、ほとんど茫然としながら見つめた。
 どれくらいの時間そうしていたのか、わからない。1分だったのかも知れないし、1時間だったのかも知れない。川面の校章を見つめていると、その反射像“∞”をある漂流物が遮った。ネプチューンはそれを視界の端にとらえて、はっとした。…確信は持てなかったが、その漂流物は“人”に見えた。

―――川に落ちていれば、この強酸の海から逃れることが出来ているかも知れない。
    もしかしたら…。

 ネプチューンは立ち上がり、川縁に駆け寄った。目を凝らしてみると、それはやはり“人”だった。うつぶせの状態で、対岸近くに浮かんでいる。川の流れはゆっくりだが、その漂流物を確実に下流へと押し流していっている。ネプチューンはすぐ川に飛び込んだ。
 泳いで漂流物に近づいていくと、暗がりの中から、だんだんその人の体がはっきりと見えてきた。明るめの服の首元に、何か濃い色のスカーフを巻いている。下は、同じく濃い色のスカート。髪の長さはかなり短い。ネプチューンは、はっとした。
 果たしてそれは、ウラヌスだった。
 ネプチューンは思い切り水を蹴って、一気に泳ぐスピードを速めた。程なく到達した目標物は、既にぐったりとしていて息がないが、体にはまだ温かみが残っていた。一分の望みをかけ、ウラヌスを伴って川岸を目指す。往路の倍以上の時間がかかって、ようやく川岸に到着する。そして酸が飛散していない安全な場所にウラヌスを寝かせ、蘇生術を開始した。必死の彼女は、他の生存者を探すことを既に放棄していた。心臓マッサージをする度に、ポタポタと涙が振り落ちて、ウラヌスの体や自分の白い手袋に吸われていった。
 しばらくすると、ゴフッという音とともにウラヌスの口から大量の水が吹き出された。心臓が活動を再開し、体全体に再び温かい血液を送り始める。ずっと中腰で蘇生術を行っていたネプチューンは、疲労と安堵のために、その場にうずくまった。汗まみれの頬を、熱い涙が伝っていく。遠くから、救急車やパトカーのサイレンが聞こえてきた。



 その日の深夜。はるかは、自宅の寝室で目を覚ました。まだ混濁した意識の中、どうしてここに戻って来れたのかをぼんやりと考え始める。…みちる。みちるが助けてくれたんだ。でもたしか、どうしても抜けられないパーティーに出席していたはずだが。
 寝室のドアがキイッと音を立てた。みちるが柔らかく笑い、何かトレイに載せて入室してきた。
「リゾットとスープを作ってきたんだけど…。少し食べられそう?」
 そう優しく語り掛ける彼女は、料理作りにはおよそ相応しくないパーティードレスを着ていた。はるかはまだぼうっとする頭のまま、ひとつ頷く。スープを希望し、一口分ずつ運んでくるみちるのスプーンに従う。卵スープ。体調を崩したときに、いつも一人で作って食べるメニューだ。ふと、スープの中に浮かぶしいたけの小さな切片が目に入った。湯戻しした干しいたけはよく膨らんでいて、人の唇のような形をしていた。食べてみると、ホントに唇みたいに柔らかい。そうぼんやりと思っているうちに、はるかはあることを思い出した。急速に頭が熱されていく。
「あ…。他にも人がいなかった? 僕の他にも!」
 スプーンで次の一口をすくおうとしていたみちるの手が止まった。みちるは少し躊躇った後、口を開いた。
「…いたわ。でも、遅かった。」
 はるかの頭の中に、ひんやりとした風が吹いた。“遅かった”ということは、つまり“死んだ”ということだ。…土橋さん。彼女を守れなかった。戦うのに精一杯で、守ることなんて全然考える余裕がなかった。薙ぎ倒された木の下敷きになったのか、敵の吐く強酸を浴びて焼かれたのか。いずれにせよ、自分に付いて来たせいで巻き込まれたこと。みちるはなおも言葉を続けた。
「あなたは川の中に落ちていて、酸害を免れてたんだけど…。その人は公園のほうに倒れていて…。」
 強酸に溶かされて死んだ、ということか。肉塊となり、最後は跡形もなくなって。…自分に付いて来たから。断りきれず、いつまでも付いて来させていたから。
「…でも、あなたもかなり危険な状態だったの。見つけたとき、心臓が止まってたわ。」
 みちるの声は、はるかの耳をただの音として通過していった。噛み砕くしいたけの感触が、はるかに何とも言えない不快感を与え始めた。その不快感は思っていた以上に大きかったらしく、突然はるかの上半身を大きく躍動させた。はるかは嘔吐した。みちるによって少しずつ胃に運ばれていた栄養物を全て吐き出して、再び気を失った。



 9月の終わりにそのようなことがあった後。はるかは自宅に引篭もり、その間みちるとの交信を断ってしまった。再び姿を現したのは、約一週間後。一人で戦っていたネプチューンを助けるためだった。ネプチューンを食らおうとしていた怪物目掛けて、特大のワールド・シェイキングを放ち、事なきを得る。戦いが終わった後、駆け寄ってきたネプチューンに、ウラヌスは俯き加減になって口を開いた。表情はまだ全く冴えない。
 「良かった。君まで死んだら、僕は…」
 それ以上の言葉は、こみあげる涙で続かなかった。

 一ヶ月経つと、はるかも少しずつ落ち着きを取り戻してきたようだった。もちろん以前のような、陽気な語り口が完全復活したわけではなかったが。学校にも出てくるようになったし、バイクレースのためのトレーニングも再開していた。…今日は31日。みちるは、久しぶりにはるかの家に行きたい、と思った。部屋の状態は心の状態を反映するから、家に行けばはるかの回復状況をより正確に把握することが出来る。また、みちる自身久しぶりに、はるかの傍で眠りたかった。

 一ヶ月ぶりに訪れたはるかの家は、相変わらずこざっぱりとしていて、置いてある物自体が少なかった。はるかによれば
「家の中の見えるところに物を出しておくのは、あんまり好きじゃないんだ。ごちゃごちゃした感じに思えて、落ち着かないから。」
とのことだったが、みちるはいつも首を傾げてしまう。たしかに、そういう考え方もあるかも知れない。けれど何にも飾らない淋しい部屋の中で、よく一人でずっと暮らせるものだ、と半ば呆れてしまう。みちるだったら、そんな環境で一人暮らしすることは、到底無理だったから。
 リビングに上がり、見るともなく室内を見回す。この一ヶ月のうちに何か変わったことはなかったかを、そっと観察する。ふと思い出し、キッチンのほうを見る。今日はハロウィーンだというのに何も祝う気配がない。…仕方のないことだ。それ以前に、キッチン自体を最近あまり使った形跡がない。ちゃんと食べているのだろうか。みちるは小さく溜息をついた。持ってきた大きめのキャリアバッグをテーブルに置いて、はるかに声をかける。はるかはお風呂の給湯器をセットして、リビングに戻ってきたところだった。カッターシャツの両袖が、かなり捲し上げられている。
「キッチンを借りてもいい?」
 いいよ、という返事は、いつものはるかの声だった。みちるは夕食作りを開始した。

 20分くらい経った頃だろうか。サラダを皿に盛り付けていると、バスルームのほうから悲鳴が聞こえた。いまさっき給湯器が電子音声で風呂水が溜まったことを伝え、はるかが蛇口を閉めに行ったところだった。みちるは手を止め、バスルームに急いだ。

 駆けつけると、はるかが変身スティックをスタンバイして今にも変身しようとしているところだった。ドアが開いた浴室は白い湯気に包まれ、中で何が起こっているのかわからない。ただ、みちるの戦士としての直感は、その場ではとくに反応していなかった。はるかは恐怖に駆られた表情で、後ずさりしながら湯気の方向を見ていた。
「どうしたの?! 何かいるの?」
「来るな!」
 はるかは、駆け付けたみちるに気づいて、そう叫んだ。瞳は、まだ湯気の方向を睨んだままだった。ただならぬ状況に、みちるも浴室の中に目を凝らす。やはりもうもうとしていて、よく見えない。みちるは換気扇のスイッチがあるところまで歩き始めた。はるかは、自分の前方に出てきたみちるに慌てた。
「みちる、やめろ!! 危ない!」
 危機迫った表情で、みちるの片腕を強く掴む。みちるは仕方なくそこで歩みを止めた。もう一度自分の感覚を研ぎ澄ましてみたが、やはり何も邪気は感じられなかった。もう片方の腕を伸ばして、換気扇のスイッチに入れる。湯気が少しずつ薄れていって、浴室の中の視界が開け始めた。はるかはみちるの腕を放した。みちるは浴室の入り口に立って、室内をチェックし始めた。
 見たところ、やはり何もいない。知った風景。いつもの青タイルだ。何かいたの?そう聞こうとして、はるかのほうを振り向くと、彼女は倒れていた。浴室が少し出たところの壁に凭れかかり、そのまま床に崩れてしまっていた。
 
 しばらくして、はるかは意識を取り戻した。目を開き、枕元で心配そうに付き添うみちるの姿を確認する。寝室に運ばれてきたらしかった。みちるはほっとした表情で、はるかの名を呼ぶ。意識のはっきりしてきたはるかは、さきほどの自分の行動を詫び、浴室で何が起こっていたのかを説明し始めた。
「…この前亡くなった同学年の子が、湯気の中に見えた気がしたんだ。給湯器のタイマーを止めてたら、浴室のほうに誰かいる気配がして。ドアを開けたら」

 はるかは顔を引き攣らせ、そこまでで絶句した。よほど恐ろしいものを見ていたらしい。もちろんそれは幻覚に過ぎないのだが、はるかの脳裏にはその映像がたしかに記憶されているらしかった。みちるははるかの見た光景を追体験しながら、胸を痛めた。今日はハロウィーン。あの世から神も悪魔も死霊も皆還って来る日。一年で一番魔力が高まる日。はるかが見ていたという女の子は、きっとはるかの心の中からやって来たものなのだろう。犠牲。罪悪感。贖罪。それらは一生消えることなく、はるかの心に深く刻み込まれてしまっているのだ。…もちろんそれは、自分も同じだけれど。
「はるか、もう思い出さなくていいから。もういいから。」
 少しの間恐慌状態に陥っていたはるかは、みちるの声で我に返った。みちるははるかがひどく汗をかいていることに気づいた。だが、いますぐバスルームに向わせるのは酷だ。せめて着替えだけでも済ませて、もっと休ませる必要がある。
「…汗をかいたわね。キッチンを片付けて、着替えを持ってくるわ。それまで少し眠ったら?ね?」
 はるかは頷き、また浅い眠りに落ちていった。

 それ以来、毎年10月末から11月初旬にかけて、はるかは眠れなくなってしまった。11/1は“諸聖人祭”、翌2日は“死者の日”。5日の“ガイ・フォークス・ナイト”。ハロウィーン以外にも、この時期は死者を祀ったりったりする西洋の行事が連続して続く。子供達にとっては、お小遣いの稼ぎ時。はるかにはあまりそういう楽しい思い出はなかったが、ヨーロッパで生活していた期間が長かったため、それらの行事のことをひと通り知っていた。だから少しでもウトウトすると、ひどくうなされるらしく、その時期はほとんど寝ないようにしているようだった。当然げっそりとして、傍目から見ても生気のない顔つきになってしまっていた。みちるはひどく心配し、その時期は出来るだけはるかに付き添うように努めた。
 もう一つ、大きく変化したことがあった。それは、はるかの女性フリークに対する応対の変貌ぶりだった。みちると夏海なつみ以外の女性からは、プレゼントの類を一切受け取らなくなってしまったのだ。たとえば学校内で待ち合わせていたはるかの元にみちるが行く途中、紙袋やキャリアバッグを持った女の子とすれ違うことが多くなった。その人ははるかがいるはずの教室から飛び出して来て、やって来たみちるを一瞬だけ見る。そしてぱっと目を伏せ、足早にその場を去る。…落胆に満ちた表情をした人、顔を真赤にした人、泣いている人。みちるが待ち合わせ場所に程なく到達すると、はるかもやはりみちるの顔をちらっと見ただけで、目を逸らしてしまう。非常に気まずそうな顔をしているが、出て行った女の子を追いかける気配は全くなかった。
「…受け取らないのね。」
「…。」 
「泣いてたわよ、今のコ。」
「…中途半端に優しいのは、やめたんだ。」
 それははるかが、土橋未友希の死から学んだ教訓だった。きちんと断ってあげる優しさを持つこと。それは犠牲者を最小限に食い止めるために必要なことだったし、はるか自身の生活を不意に乱されないためにも重要なことだった。



 そして三度目のハロウィーンを越した翌春、はるかとみちるの戦いはついに終結した。血眼になって探していたタリスマンは、皮肉にも自分たちの心の中に封印されていた。自分とみちる、そしてせつな。自分達三人の体は、“メシアの元にタリスマンを運ぶ便利な乗り物”に過ぎなかったのかも知れない。人をも殺す強大な力を使って生き延びて、来るべきときメシアにそれを提供する。それだけの存在だったのかも知れない。…いや、せつなは違う。セーラー戦士として、他にも多くの役目を重複して背負っているから。でも自分とみちるの場合は…。
 それに。別に、聖杯の力を借りなくても。メシアがその気になれば、世界は救われた。
「メシアがいるから大丈夫、か…。」
 はるかは一人ごちた。世界が救われた後、自分達に残ったのは、重い十字架。たくさんの屍を越えてきたけれど、いまは…。自分達の行為を正当化する根拠すら失ってしまっている。

―――ボクハ ナンノタメニ イママデ

 考え考えしながら住宅街の道沿いを歩いていると、下半身に何かが思い切りぶちあたった。衝突の反動でこけそうになって、何とか踏み止まる。見ると、車の通り抜け防止のために設けられた鉄柵だった。無防備にぶつけた足が、ジンジンと痛み出す。はるかはあたりをちょっと気にしながら、小さく溜息をつく。いけないいけないと自省して、また頭をブンブンと振った。

 十番商店街から少し離れた閑静な住宅街に、はるかの新居はあった。天王洲にあったコンドミニアムタワーは現在再建中のため、それが完成するまでの仮住まいのつもりで借りたものだ。都心から少し離れたところに家を借りたのは、以前の静かな生活が、少し恋しくなったから。…夏海のもとに戻っても良かったのだが、はるかはそれを思い留まった。一度一人暮らしに慣れてしまうと、昔とは違った静けさを生活の中に求めるようになっていたから。みちるはというと、相変わらず海王家の本邸に住所を置いていたが、週に一度ははるかの家に足を運んでいた。バイク、ヴァイオリン。それぞれの生活に戻りつつ、お互いに束の間の休息の時を送っていた。

 そんな新居での、ある夜。はるかはふと、昔のことを思い出し、みちるに語り始めた。 
「前さ、分子生物学の先生が講演に来たことがあっただろ?…みちるはそのとき補講受けてたけど。その講演で、働きバチの攻撃性は遺伝子が決めるっていう話があったんだ。変わった名前の遺伝子で、“KAKUGO遺伝子”とか言ってた。」
夜中に何を話し始めるのだろう、とみちるは少しだけ訝しがる。とりあえず相槌を返す。
「ああ…。たしか今はもう、実用化されてるのよね?養蜂場の採蜜で。」
「うん。それってさ、僕達の体の中にもあるのかなあって思うんだ。僕達は敵が現れても逃げないし、むしろ向っていくだろ?」

 それを聞いて、みちるはすぐには言葉を返せなかった。はるかの発言は、自分達のこれまでの行為を、どうにかして正当化しようとする一種の縋りのようなものだったから。けれど、もしそんな遺伝子が本当に組み込まれていたら。自分たちは、一生戦い続けなければいけないことになる。もともと戦士の道を選んだ理由は、はるかがいる世界を平穏に保ちたかったから。はるかがいない世界なんて、守ったって仕方がない。だからもし、戦いの果てに肝心のはるかが死んでしまったら。自分が“働きバチ”を演じている意味は、本当になくなってしまう。そしてそのときが本当に訪れたら、自分は…。
 いつしか、みちるの顔から完全に笑みが消えてしまっていた。
「はるか。」
「ん?」
 はるかは、ルームライトの小さな明かりを見つめたまま、落ち着いた声で応答した。みちるは、はるかに何か話し掛けようとして、やめた。すぐには言葉を返さないまま、はるかの顔に頬をすり寄せる。首元に顔を埋めて、言葉を選ぶ。重ねた肌のあたたかさから、はるかをまだ知る前の自分を思い出す。あの頃はただひたすらヴァイオリニストになる夢を追う自由があったが、孤独だった。その自分と、“働きバチ”として忙しく立ち回る今の自分を比較する。夢は潰えたけれど、今は孤独ではない。孤独でない今の自分のほうが、ずっと良いように思う。だからもしはるかを不意に失ってしまったら、自分は孤独と罪過で押し潰されてしまうかも知れない。昔の自分には、多分もう戻れないだろう。…はるかが思っているほど、海王みちるは強い人間ではないから。はるかがいるから強くなれたし、残酷にもなれた。だから、もしはるかがいなくなったら…。
 喉の奥が熱くなる。吐息と涙の雫で、はるかの首元のあたりの皮膚を湿らす。ぼんやりしているはるかは、すぐにはそれに気づかない。みちるは熱くなった喉から、ようやく声を絞り出す。
「…、…。追いて行かないで…。」
 みちるははるかの首元にもっと顔を埋めて、はるかを抱き締める力を強めた。それ以上何か言葉を続けることは、今のみちるには無理だった。はるかはしばらくして、ようやくみちるの真情に気づいた。
「ごめん…。」
 掠れた声でそう呟き、みちるをきつく抱き返した。

 忘れてはいけないことがある。
 みちるも同じなのだ。
 重い十字架を背負って、生き続けているのは。

真夜中の静寂は、いつしか二人の心にひどく重くのしかかっていた。

 Fin. 
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Photo:daydreamer   Special Thanks:彩歌様
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※この作品は、フィクションです。作品中に登場する名称や出来事は、実在の人物や出来事と一切関係ありません。