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First homicide, First night
初稿掲載日:2003年5月24日 / 最終修正日:2008年9月2日 / 現代編追加設定まとめ / 謹呈:美由様
「がっ?! …ぐっ………。くはっ」
 ウラヌスは必死の思いで、己の四肢を締めつける八つ手から逃れようともがいていた。


 週末が空き、久しぶりに寝過ごしていた朝だった。電話の着信音。夢の中から、急に現実に引き戻された戸惑い。恐慌状態を抜けて額に手をやると、触れた前髪が汗で濡れていた。電話のベル音は、相変わらず規則正しく鼓膜を揺らしてくる。…出る気には、まだちょっとなれない。起き上がらないまま、留守電に切り替わるのを待った。
 留守応答メッセージの後、程なく電話主が喋り始めた。みちるだ。声を聞いて、仕方なく子機に手を伸ばす。学園主催のサマーフェスティバルがあるから、一緒に回りましょう、とのこと。声は弾んだ感じではあったが、何かしら示唆するものが含まれた言い方でもあった。

―――そうだった。

 ふと思い出す。学園内で怪物が出現するのは、決まって何かイベントがあるとき。もうちょっとウトウトしていたいのを我慢して、承諾の返事を返す。程なくベッドを出て袖を通したのは、制服のカッターシャツ。じゃなくて、いつものトレーニングウェア。昼前から消化する予定だったトレーニングメニューを、前倒しして今からやっておかないと。朝食を済ませ、トレーナーに電話をかける。程なく快諾を受け、家を飛び出す。



 休日に制服を着て学校に出て来るのは、かなり久しぶりのことだった。陸上を完全に辞めてモータースポーツに転向してからは、日が暮れるまで学校に残っていることもなくなっていたから。もう走りたくない。じゃなくて、もっと早く走れれば、と思ったから訪れた競技転向だった。今日だけIDノーチェックになっているゲートを素通りし、待ち合わせ場所へと向かう。入ってすぐの、広い公園。目印の噴水の前で、夏服のみちるが待っていた。
 とくに行きたい場所もないので、あちこちのイベント会場で時間を潰す。今日1日、ここでダイモーンが出現しないことがベスト。出たとしても、すぐ駆けつけられる場所にいればそれで良かった。少し歩き疲れて、近くにあったオープンカフェで休憩をとる。程なく運ばれてきたコーヒーは、何故か知った匂い。一口口に含む。…どうやら某有名コーヒーチェーン店の豆を使っているらしい。けれども常とは違って、味が微妙に粗い。自分で淹れたほうがやっぱり美味いかな、と多少毒突いていると、ふと眼前のみちるが口を開いた。
「今度新しく出来た臨海実験所と、付属の水族館に行ってみたいわ。」
 …また海関係か。そう思いつつも、それ以上の異論もなかった。安いミルで台無しにされたスペシャルブレンドをさっさと飲み干して、カフェの席を立つ。

 学園は遺伝子研究に力を入れていることもあって、敷地内に幾つかの関連研究所を有していた。大きく分けて、陸域と水域。水域関連では、海洋浄化能力の高い水生植物の開発や、高CO2濃度でのムラサキウニの比較飼育実験、東京湾近郊の環境モニタリングデータの集積等が進められている。先頃出来たこの付属水族館では、土萠教授の研究グループが開発した新種の海洋生物と、そのゲノムDNA標本や系統樹の展示が行われていた。
 入ってみると、わりと多くの入館者。学外者…親子連れや研究者然とした人もかなり見受けられる。みちるは割とじっくりと、一つ一つの水槽や説明に目を通している様子。仕方なく自分も、水槽の中の生物達に、見るともなく目線を保つ。海産哺乳類のコーナーに行くと、ジュゴンが泳いでいた。ジュゴンのメスは、授乳するとき子供を胸鰭で抱きかかえるようにして、乳を与える。その姿が人間の女性に似ていることから、漁師達の間で人魚伝説のモデルにされたと言われている。普通“人魚”といえば半身半魚の美女を想像してしまうが、そのモデルとなったジュゴンはずんぐりむっくりした体格で、牛のようだった。実際、水槽傍の説明書きには“ジュゴンは分類上『海牛類』の一種とされている。マナティーもこの仲間で…”と記載されている。…牛。海にいる牛。牝牛。人魚ならば、深海の戦士であるネプチューンと結び付けたくもなるが、実物のジュゴンを見ると興ざめしてしまう。みちるもそのことをわかっているはずなのに、ジュゴンの水槽の前でこう言った。
「私に似てるかしら?」
 それを聞いて、はるかは答えに窮した。もし「似てる」と言えば「私ってそんなに太ってるのね…」と傷つけてしまいそうだし、「似てない」と言えば「そうね…。私は深海の戦士だけど、全然海で泳がないし…。」と落ち込ませてしまいそうな気がしたら。どちらの回答を与えたとしても、みちるの望むものを提供することは難しい。しばらく考えた末、玉虫色の回答を用意する。
「雰囲気的には似てるけど、体形的は似てないと思う。」
 真面目な気持ちでそう答えると、みちるはくすっと笑った。とくに気分を害した風でもなく、別の水槽に目を移していく。その様子を観察し終わった後、いつの間にか少し力の入っていた肩を、ふうと撫で下ろす。何だかデートの度に遊ばれているような気がしないでもない。でも、みちるをいじめ返す気にはなれない。“ま、仕方ないか…”と諦めて、みちるの後を追う。そうやってしばらく、いつものデートと変わりない昼下がりを過ごしていた。

 小一時間ほど経った、と思った頃。
 後ろから突如、けたたましい爆発音と蒼白い閃光が放たれた。


 館内に響く幾つかの悲鳴。逃げる人々とは対照的に、自分達二人は爆発源へと急ぎ向かう。深海生物コレクションを展示した一角に到達したとき、足が止まった。分厚い耐圧ガラスケースが派手に割れ、付近に大量の海水が流出している。フロア中に立ち込めていく、磯臭い臭い。照明は暗い。見ると水槽の残骸の奥に、大きな隠れ岩。その後ろに、先ほど放たれた閃光の残り火のようなものがあった。変身スティックをスタンバイして、光源へと向かう。
 近づいた岩の向こうは静かで、ただ弱い光を放っているだけだった。しかしもうすぐ岩の向こうが見えようかとしたとき、何か触手のようなものが飛んで来た気がした。確かめるより早く、隣を歩くみちるが悲鳴をあげた。振り向くと、半透明なタコ脚のようなものが彼女の胴部に巻きついていた。掴まれた身体は、少し宙に浮かされたかと思うと、先ほどの隠れ岩のほうにズルズルと引き寄せられ始めた。

 はるかは急いで変身し、猛ダッシュをかけた。岩の向こうに引きずり込まれる前に、何とかみちるに到達し、タコ脚めがけて思い切り手刀を食らわせた。そうすると、ブチンッという歯切れの悪い音を立ててそれはちぎれ、みちるは床へと不時着した。
 ほっとするのも束の間、またすぐに前を向き直った。みちるが変身するために安全な場所に避難するまでは、自分一人で敵をあしらわねばならない。とにかく時間を稼がなければ。隠れ岩を睨み、右手に意識を集中させる。まもなく手から球体が放たれ、地を這って加速し始めた。

 程なく岩は砕け散り、そこから怪物が姿を現した。敵は、体の上下部に複数の太い足を持つタコ足型のダイモーン。2匹のタコを胴部で逆さにくっつけたような、異様な形相。体長は約1.5メートル、上部腕脚も入れると優に3メートルは越すだろう。コウモリダコに似ている気もするが、足も体も…ちょっと、大きすぎる。
 …と、先ほど自分が切った腕脚が、急にブルつき始めた。切れ口が無定形状に綻んだかと思うと、みるみるうちに元の形に再生されていく。

―――自己修復システムを持ってるのか。厄介な敵に当たったもんだ…。

 少し顔を強張らせ、次の攻撃に備える。

 神経の通っていないはずの腕脚が、驚くほどしなやかで鋭敏に動く。その腕さばきを見ても、高等動物の頭脳を持っているとしか思えないような合理的な攻め方を見せている。誰か人間と融合されたダイモーンなのでは、と半ば疑う。もしそうだとすれば、ある程度手加減して攻撃していかなければならない。

 ようやく変身したネプチューンと共に、執拗に絡みついてくるそれを粉砕する。しかしお互いの手足がとられる度に助け合い、敵の本体には全く有効なダメージを与えることが出来ない状態が続く。埒があかないことに苛立ち、こちらから何とか仕掛けていく機会を伺う。
 …四度目、ネプチューンが敵にとらわれたとき、ウラヌスはすぐには助けなかった。ネプチューンをとらわれた状態で、敵の本体目掛けてワールド・シェイキングを放つ。幸いにも命中したそれは、ネプチューンを掴む腕脚を緩めさせるだけの効力があった。ウラヌスは次の目標物を軽く確認した。そして床に落ちゆくネプチューンの無事を確認しないまま、ダイモーン頭上の照明灯目指してジャンプした。
 敵をすぐに直接攻撃しないのには訳があった。まず一度頭上に上がり、天井から吊るされた蛍光照明灯に乗る。次に、乗った照明灯に手刀を入れて天井から切り離し、盾代わりにして、頭上から一気に至近距離に入り込む。それから上体部の触手に照明灯を当て、自分は一度着地。そしてすぐ懐に潜り込めれば、本体部に直接大ダメージを与えるチャンスが作れるはず。そういう推測を立ててとった行動だった。
 予定通りの行動を起こし、懐に上手く潜り込めた、と思ったそのとき。不意に、後ろ手からストップをかけられた。左足に強い拘束。敵はこちらの行動を予測して、下体腕脚の一つを床下に潜らせていたらしかった。今にも踏み出そうとしていた片足をとられ、ウラヌスの身体は派手に地面に叩き付けられた。

 大きな衝撃に顔を歪めながら体を起こそうとするウラヌスを、残りの腕脚が捉え始める。腰、両腕、両脚、そして首。容赦なく強い力が身体を締め上げる。急いで振りほどこうとするも、腕脚についた吸盤のようなものが頑固に付着して離れない。それでも必死にもがいていると、ふと全身に痺れが走った。不意に霞む意識。視界が揺らぐ。

―――毒…。

 気づいた後、無理を承知で右手にパワーを集めようとする。だが毒に冒され始めたその腕には、必殺技を放てるだけのパワーが集まらなくなってしまっていた。一段と揺らぐ風景。ふと、ネプチューンのことを思い出す。倒れた方向を見るも、まだ起き上がるのに時間がかかる様子。
 もちろん敵に容赦はない。残りの腕脚の幾つかが、ドリルを模すかのように絡みつき始めた。そして程なく形を成したそれは、腹側から、もがくウラヌスの胴体を貫ぬこうと窺い始めた。
「くっ…。」
 目の前に形成されたドリル状腕脚を認めたウラヌスは、あることを考え始めていた。
 …考えられる最後の手段。
 自爆。
 手に力を集めきれないのならば、体全身にパワーを漲らせて一気に放出すればいい。体を締め付ける力が一段と強くなる。歯を食いしばり、覚悟を決める。

 先に倒されていたネプチューンは、ようやく上体を起こした。敵とウラヌスの様子を見て、はっと悟る。白く煤けた腕脚の隙間から放出される、金色のエナジー。急速に高まる不安。大声でウラヌスの名を呼ぶ。
「…ウラヌス!!!」
 夕刻の館内に、悲痛な叫び声が響き渡った。その声は、決死のウラヌスの耳にも何とか届いたらしかった。言葉を受けて、腕脚の中のオーラはひとまず収まっていく。機を伺っていた敵の腕脚が、ウラヌスの腹近くから自分のほうに矛先を変える。ネプチューンは急いで立ちあがった。

 怪物は、次なる標的をネプチューンと認識したらしかった。その証拠に、そのドリル状腕脚を立ち上がったネプチューン目がけて伸ばしてきている。捕まるわけにはいかない。追われるネプチューンは、空を舞ってフロア内を逃避し始めた。
 敵の攻撃を回避しながら、その腕脚を障害物に当てさせるように退いていく。少しでもパワーを浪費させる。“活きがいい”ままでは、上手く料理の仕様もないから。
 何度か攻撃をかわしているうちに、敵の追跡が少しずつ和らいで来た。ネプチューンは、ウラヌス達から少し離れたところに着地した。一呼吸つき、思考を再開する。

 …腕脚を攻撃してもすぐ修復する。接近して手刀を食らわせるのは尚危険。距離をとって技を撃ち込むにしても、場所を考えて撃たないとヒットは期待できない。ヒートしていく思考回路の中で、持てる全データとの必死の照合が始まる。
 …軟体類頭足綱。もし、それら生物と似た体制ならば、胴部に重要器官が集中しているはず。神経中枢はないのだから、胴部上層の心臓部を狙っていくのが確実だろう。もしかしたら可視光領域が我々の目と違うかも知れない。けれどたとえ見えていても、超速のスピードで撃てば避けることは出来ない。
 …残る問題は二つ。ウラヌスが盾にされる可能性。何かそれなりに目くらましを作って、そのうえで撃発タイミングをずらして技を放たないと、敵は腕脚あるいは触手を動かす余裕を持ってしまうだろう。…もう一つ。必殺技着弾に対するウラヌスの副被爆率。ここから目標物まで距離は、約…。20m。敵とウラヌスとの距離は、直線的に見て1m半弱。必殺技の発射軌道に細心の注意を払わなければ、ウラヌスも無傷では済まされない。
 ピンポイント、かつ大ダメージ。
 全力で撃って、ようやく条件を満たせるか否か。
 求められる水準は決して低くない。けれども現状では、これがベスト。

 全ては瞬時の思考だった。
 自分が海洋エネルギーを最大限に活用出来る戦士であることに感謝して、全神経を集中させる。ネプチューンの体全体に、翡翠色のエナジーが漲り始めた。
 それに呼応するかのように、まだ割れていない周囲の水槽が次々にガタつき始めた。その一つにヒビが入ったかと思うと、他の水槽も次々に亀裂を生じていく。そして爆音を立ててガラスケースが押し破れ、中の海水が勢い良く流出し始めた。流れ出る海水は、まるで意思を持っているかのように集束し、ネプチューンの周囲に大きな水壁を形成してゆく。それらは、滝のように激しい水流を成して、ネプチューンの身体全体を球状に包み込んだ。

 ウラヌスを締めつけるダイモーンの腕脚が、一瞬緩む。突然現われた水環に、ダイモーンも幾らか気を取られているらしかった。その証拠に、危険を察知したその軟体は、海色の光を発し始めていた。様子見に恐る恐る伸ばした攻撃腕脚の一つが、水環の激しい水流によって、派手に打ち返されてしまう。ネプチューンの体は、自身の成した水環によって完全に守られていた。
 水環の向こうにいるダイモーンとウラヌスの位置関係。ネプチューンにはきちんと見えていた。頭上に両手を掲げ、意識を極限まで集中させる。プラネット風のエネルギー球を頭に迷いなくイメージし、持てるエナジー全てを費やして具現化する。程なく、蒼白い強光がネプチューンの手から放出され始めた。

―――はるかには当たらない。絶対に、当たらない…。

 不安を拭い去るつもりで、心の中でそう唱える。
 程なく完成した特大のエネルギー球は、常とは違う無言のうちにネプチューンの手を離れた。それ以上の余裕は、そのときのネプチューンにはなかった。

 手加減なしのディープ・サブマージが、ダイモーンの胴部上層に直撃した。程なく、館内に断末魔の悲鳴がこだまする。…ネプチューンの判断は、誤ってはいなかった。ダイモーンの手から、瀕死のウラヌスが解かれる。強い力で締めつけられていたその体は、バランスを崩して地面に叩き付けられた。ネプチューンはフォロースルーもそこそこに、意識の集中を解いた。制御を失った水環は、ただの水に戻り、床を勢い良く舐め始める。その水流は、ウラヌスの元にもすぐに届きそうな勢いだった。
 急いで抱き上げに行こうとするネプチューンの進路を、あるものが阻む。ウラヌスを離したダイモーンの胴部上層から、何か液体状のものが吹き出し始めたのだ。透明な、粘性の低い液体。それは数秒の放出期間のうちに、敵足元にいるウラヌスの全身に降り注いだ。しばらく続いた飛沫の飛散力がだいぶ衰えてきたと思ったとき。敵は力なく床に前倒しになった。

 今度こそと、ウラヌスの元に駆け寄る。意識は、かなり朦朧としている様子。水浸しの床から抱き上げて名前を呼ぶも、言葉での応答が出来ない状態。出血と打ち身の症状も多少見受けられる。それより最大の関心事は、毒。まだかなり苦しそうだったが、介抱しているうちにその症状は少しずつ改善され始めた。…さっき、敵の最期に出された潮吹きのような液体は…。もしかすると、解毒作用があったのではないか。
 と、自分達の隣に、人の横たわる姿。無限学園の男子学制服。頭から血を流し、力なく床に崩れ込んでいる。脳裏を掠める漠とした不安。ウラヌスの元を離れ、負傷している男子生徒の元に跪く。呼吸をしていない。すぐに人工呼吸をと、身を乗り出す。うつ伏せの体を、注意を払って反転させる。

 …そのとき目視したものは、おびただしい量の出血と、頭部から胸部にかけての損傷のひどさだった。自分が今さっき狙った部位と、目の前の生徒の身体損傷部が、奇妙なほど対応している。

―――この人が、さっきの…

 さっきのダイモーンの宿主だったのか。ようやく気づく。眼下に、生暖かい血の海がみるみる広がっていく。傍に跪いたネプチューンのスカート裾にも、その鮮血が徐々に染みあがっていった。殺したのだ、と悟る。
 ネプチューンは、学園生徒の体を押える手を離した。色の妙。純白の手袋に、自分のものではない真っ赤な血糊がついている。開いた手指の隙間から、知ったカッターシャツの膨らみ。血で染められた胸ポケット部分に、「MUGEN・J」の文字。そのポケットからは、この水族館のパンフレットが覗いていた。べっとりと血をかぶり、不自然なほど引き千切られて。

―――この人は…。

 今しがたまで、自分達と同じようにこの水族館内を観光していた、同じ中学校の生徒だったのだ。前傾姿勢を支えていた腰の力が抜けていく。ネプチューンの姿のまま、その場に座り込む。

 しばらく後。毒が完全に抜けたウラヌスは、ようやく意識を取り戻した。時間にすれば、ネプチューンが敵を撃破してから五分は経過していただろう。まだ横たわった状態のまま辺りに目を向けると、倒れた人の傍に座り込んでいるネプチューンの後ろ姿があった。起き上がり、その元へと歩み寄る。様子を見て、状況を悟る。覚悟していたことが、現実に起こってしまったのだと。
 ふと、人の声。爆音を聞きつけて駆け付けて来る消防団員の声らしかった。ウラヌスはネプチューンを見た。だがネプチューンは、座り込んだまま動こうとしない。
「…ネプチューン!」
ネプチューンは、やはり動こうとしない。声が近まってくる。ウラヌスは焦った。仕方なく彼女の片腕をとって、首に回させる。そして腰から抱きかかえ、思い切り床を蹴った。
 ウラヌス達が現場を去った後。残されたのは、たくさんの破損物と、流水にまみれた床だった。そして、その中に横たわった無限学園生徒。その生徒は、やはりそのまま再び動くことはなかった。



 はるかはみちるを、天王洲の自宅付近まで運んできていた。学園に着いたのは13時半。水族館を回り始めたのは、昼下がりもだいぶ過ぎた頃…16時半過ぎだったはず。今再び腕時計を見ると、19時近くを指している。だいぶ日が落ちてきたが、まだ他人の着ている服の色判別くらいは出来る明るさが十分にあった。
「変身を解いて。家に入るまで、少し人目があるから。……みちる?」
 みちるは無反応だった。まだ呆然としたままで、はるかの声が聞こえていない様子。このまま自宅に向かうと、周囲から変な目で見られてしまう。他から見れば、コスプレの変態野郎にしか見えないだろう。何より、血のついた衣服を人目にさらしたくなかった。少し迷った後、ネプチューンの頭からのティアラを外す。星の紋章が浮き出る額中央部あたりに、自分の変身スティックをかざす。額の中央部に、鈍く引かれる手応え。全身にまぶされた星砂が、シュルシュルと吸い込まれていくような光景。程なく、ネプチューンを包む星のエナジーが、ウラヌスのスティックに吸い込まれ終わった。はるかは元の制服姿に戻ったみちるを背負って、コンドミニアムの中に入館する。

 みちるを家に連れてきたのは、そのときが初めてだった。今の状態のまま彼女を家に帰すことは、とても出来ない。少し寝て、正気を取り戻してからでないと。家人もびっくりすることだろう。毛布を剥ぎ、白シーツの上に体を横たわらせる。とりあえず、制服から剥き出しになっている肌部分を一通り目視する。…幸い、目立った怪我は負っていない。ただ、状態は、まだ呆然としたままだ。薄浅葱色の瞳には、この部屋のものはまだ何も映っていないらしかった。はるかは一つ小さなため息をつく。瞼をそっと指で押え、目を閉じさせる。それからエアコンのスイッチを入れて、寝室を出た。

 寝室を出たはるかは、ひとまずバスルームへと向かった。軽くシャワーを浴びて、体から血と汗を洗い流す。ゆっくりと湯に浸かるのは、みちるを家に戻した後。手早く服を着込み、怪我の処置を済ませる。それからココアを一人分作って、ガスコンロの火を止めた。紅茶でも良かったが、カフェインがたくさん入っているので興奮させてしまう恐れがあった。もちろん、ココアに含まれているカカオにも興奮作用があるのは確かだけれど、カロリーが高く、ミルクで溶かせば1食分のエネルギーは補給できる。今のみちるの精神状態では、正気を取り戻しても、恐らく夕食を食べる気にはなれないだろう。また、甘くて熱い飲み物を摂ると、気分的に少しは落ち着ける気がした。

 しばらく眠っていたみちるは、寝室のドアが開閉する音で目を覚ました。はるかを視界に認めて、ぼんやりと見つめる。制服のカッターシャツから、グレーのTシャツに着替えている。そのはるかと一緒に、何か甘い香りが寝室に入ってきたのを感じた。
「ココア淹れて来たんだけど…。飲める?」
 頷いてカップを受け取り、一口二口、口に含む。正気は取り戻したようだが、まだ色々喋れる状態ではないらしい。
「家、迎えに来てもらうよ。牧野さん、だったよね…?執事の人の名前。」
 みちるはきちんと答えない。まだぼうっとしているらしかった。はるかはベッド脇のテーブルにココアを置いて、みちるの傍に少し屈み込む。フローラルの芳香が、みちるの鼻にも届く。いつも付けているコロンとは、違う匂い。
「『僕の家に遊びに来て、急に具合悪くなった』って言っとくから。」
 湿り気の残るはるかの肌が、みちるの目に留まった。そういえば髪も濡れている。自分が眠っているうちに、シャワーを浴びてきたのだと、ようやく気づく。一方のはるかは、用件を言い終わって上体を起こした。それから静かに戸口に向かおうとすると、いきなり右腕に強い拘束を感じた。
 みちるは咄嗟に、逃げる芳香を掴まえてしまっていた。腕を掴まれたはるかは、何事か、と向き直ってみちるを覗き込んだ。
「…。まだ、気分優れない?」
 みちるは、頭を小さく左右に振る。目を探ろうとするも、こちらに視線を合わせてこない。心細いのだろう、とはるかは推測する。
「寝てたほうがいいよ。…電話掛けて、またすぐ戻ってくるから。」
 そう言って、片腕を押える白い手を優しく解こうとする。しかしながらみちるは、腕を離すどころか一層強く掴み返してきてしまった。はるかは、幾分戸惑った表情でみちるの顔を覗き込んだ。
「…。じゃ、お風呂貸すから、迎えに来てもらっている間に入っておかない? そうしといたら、家に帰ったら後は寝るだけだろ?」
 みちるは少し沈黙した後、やはり頭を横に振った。しばらく待ってみるも、腕を離してくれる気配はない。どうしようかと思案していると、俯いたまま急に泣き出してしまった。
薄暗いベッドルームに、淋しい嗚咽が響く。頬を伝う涙の透明な筋と、雨で濡れそぼったような翡翠色の髪。凄惨な様の中で、それらが奇妙な妖艶さを放つ。

 はるかはその様子を見て、しばらくぼうっとしていた。今頃みちるの執事は、主の帰りが遅い、と気を揉んでいることだろう。家人を使って捜索を始めているところかも知れない。…泊まるにしても、後で必ず電話を入れないと。そして明日の朝、海王洲の自宅まで確実に送り届ける必要がある。当のみちるは、この調子。静かに眠ってくれる風でもなかった。殺人を犯してまだ幾分混乱していることで、一人でじっとしていることがとても出来ない状況なのだろう。

 一方のみちるにおいては、はるかの推測はおよそ当たっていた。幾らか付け加えるとすれば、はるかの家に初めて入ったことへの戸惑いがあること。もう一つ、このままもう一度眠りに落ちたくはない、という強い要求を持っていること。寝て醒めれば、全てが嘘だったなんてことは有り得ない。自宅に戻って普通に生活していれば、徐々に事実を受け入れていける、という確信もまだ持てない。
 けれども逃げたくはなかった。途切れ途切れの思考でも、何をしながらでも、きちんと受け止めなければならないこと。これが、使命を遂行することの実際なのだということ。でも一人では、乗り越えられそうにない。真っ向から考えていく勇気もまだ持てない。だから何か、今だけでいいから、すがれるものが欲しかった。途切れ途切れの思考の中で、誰かの身近な支えを感じながら、事実を見つめていく姿勢を作っていきたかった。その適役は、はるかを除いては、今は考えることが出来なかった。

 特殊な状況下で、はるかの理性がぐらりと揺らぐ。通常ならば、頭に思い浮かんでもすぐ揉み消してしまうある感情が、徐々に思考の大半を支配し始める。その感情を、弱まった理性をかき集めて必死に叩く。こんな状況下で、自分は何を考えているのだろう。人を殺した晩なのだ。みちるだって、こんなにも精神的に参ってしまっているではないか。
 …だが実際は、こんな状況だからこそ、はるかの強靭な理性は突き崩されてしまいそうになっていた。恥じらいと罪悪感を感じられなくなってしまうくらい、ショッキングな出来事が起こった後だったから。みちるが人を殺したのだ。みちるが人を殺した。

 考えているうちに、ふとみちるの手が解かれた。はるかは反射的にみちるの顔を覗き込む。みちるは、やはりまだ俯いて涙の止まらないままだったが、乾いた声で一言呟いた。

「…ごめんなさい。」

 それだけ言うと、うなだれてしまった。もう嗚咽は出さなかったが、引き寄せた白いシーツに、ぽたり、またぽたりと涙の珠が落ちていく。片腕の拘束がなくなったはるかは、しかしながらまだその場を立ち去れずにいた。掴まれていたその腕に感じる、無形の枷。先刻ダイモーンに締め付けられていたときよりも、何故だかずっと強い拘束力を感じていた。…今のみちるは、雨の日にずぶ濡れになって震えている仔猫のような痛々しさと、凄惨だからこそ持てる妖しい魅力を放っているのだ。
 それから数秒間、空を仰いだかと思うと、肩膝を掛けて、はるかはまた行動を静止した。セミダブルのベッドが少し弾む。自分がしようとしていることを、相手が望んでいることの差。どのくらいあるのだろう、と正確に測る気持で。みちるはやはり俯いたままで、ノーリアクションだった。はるかはもう一度、状況を分析しなおす。…みちるは正気に戻っている。もし大きな読み違いがあれば、もっとはっきりと拒絶してくるはず。それなのに何故抵抗しないのか。何故、腕を離した後「ごめんなさい」と言って泣き出してしまったのか。結論は、15秒ほどの行動静止時間の後に出された。
 差は、20%未満。
 はるかはもう躊躇することなく、ベッド上に身体を進めた。

 ベッドの上。
※注意! このリンクはR指定です。(18歳以上の方だけご覧下さい)



 結局はるかは、みちるの望んだこととそう差異ない行動に及んでしまっていたらしかった。抱かれている間、一つも抗うことがなく、なされるままになっていたのだから。ただ、涙が止めど無く頬を伝い続けていたことは。わかっていても、辛かった。
 急速に冷えて乾いていく汗玉。全身を襲うけだるさ。腰のあたりの鈍い重みと、上体のむかつき。腕の疲れ。すぐ隣りから聞こえてくる寝息と、シーツの擦れる音。重ねられた身体から直に伝わってくる体温。手指にまとわりついている、粘性のある液体。ところどころが濡れているシーツ。脱ぎ散らかした衣類。俄かに、思考が現実味を帯び始める。自分のとった行動に対する、軽い後悔の念。望まれても、与えるべき行為だったのかと。傷ついたその心身を、ただ抱き締めているだけでも良かったのではないかと。考えていると、思考がどんどん自分を責め咎める方向に進んでゆく。

 不意にみちるが口を開いた。
「人を、殺したわ。」
 みちるが目を覚ましたことに気づいていなかったはるかは、その発言を受けてびくっと反応した。横を見ると、はるかの胸元のほうを見てぼうっとしているみちるの姿があった。何も言わずにみちるの首元に手を埋めて、もう少し言葉を足してくるのを待つ。
「警察に…行ったほうがいいのかしら。」
 向かい合ってみちるの顔を覗こうとすると、目を逸らされた。仕方なく、抱き寄せて無言で抱き締める。馬鹿なことを言っている自覚は、みちるにもあるらしかった。そんなことをしても、根本的な問題の解決にはならない。犠牲が出るのは、覚悟の上のこと。そのくらいの重荷は、一生背負って生きていく覚悟をしていたはず。ネプチューンのスティックを掴んだ、そのときから。けれどそうは思っても、やはりみちるのしてしまったことは立派な殺人。みちる自身、まだ多分に清純な部分の残る女子中学生なのだ。白い細肩を抱くはるかの腕に、心なしか力が入る。
「もしそうしても、相手にしてもらえない可能性が高いよ。『変身して殺した』なんて言っても…。凶器はないし、動機もわからないだろ?『タリスマン探しのため』なんて口が裂けても言えないし、言っても全然意味がわかってもらえないと思う。…君の手袋についてた血痕も、変身を解いた今は残ってないわけだし…。」
「でも」
 すぐ傍に、不安と自責の念に駆られたみちるの顔があった。今にもまた泣き出しそうな声での反論。当初はカラカラに乾いていたはずの白シーツが…。今は何故か湿っぽく肌に当たっていた。はるかは一つため息をつく。今の自分の立場から言ってやれることは、ただ一つだった。
「僕も共犯だろ?」
 安い言葉であっても、そのくらいしか思い浮かばなかった。みちるはいつも、自分をかばおうとして怪我を負ったり、元は人間である敵を殺しかけたりしてきた。それは彼女が自分の恋人であるから。自分が死にそうになると、みちるは一気に冷静さを失ってしまう。もし、自分が恋人でも何でもない存在だったら、ここまでかばってくれることもなかったはず。今回の一件も、そうだ。あのとき自分が無茶しなかったら、みちるは敵を殺さずに済んだ。必殺技の力の加減をすることが出来たはず。
 はるかの言葉を受けたみちるは、堪えきれずにまた涙を溢れさせた。はるかの胸に顔を押し付けて、声を押し殺しながら泣き続ける。もう十分過ぎるくらい泣いてるはずだが、みちるの中には、枯れることを知らない悲しみの泉があるらしい。はるかはまた一つため息をつき、泣き続けるみちるの頭を優しく撫で続けた。

―――たとえ、どんな犠牲を払っても。

 三つのタリスマンを集めて、聖杯を出現させる。そしてその聖杯を、メシアとして正統な者に託す。その任務を完了させるまでは、二人のうち必ずどちらかが生き残る。その目標達成までに起こりうる僅かな犠牲は…仕方のないこと。必要なこと。
 そう決心して躊躇わないつもりだった。けれど実際に人一人殺してしまうと、この状態だ。この重荷を、これから幾つ心に背負っていけば、メシアに到達するのだろう。自分の手を汚してまで、それ以上にパートナーの手を汚してまで、阻止しなければならない“沈黙”なのだろうか。目の前の一人が不幸になって、一生通しても会うことのない地の果ての人々が救いを受ける結末など…。本当に、迎える価値があるのだろうか。…一人一人の幸福が保証されない状態で、全世界の幸福を求めるのは、やはりおかしな正義ではないだろうか。けれどもそれが自分達の使命だから、と。無理矢理納得して戦い続ける。そんな強さは…。これからも、持ち続けることが出来るのだろうか。
 そう、途方に暮れながらも。腕の中のみちるを、はるかは優しく愛撫し続けた。



 数週間後。午前1時を回った頃、はるかは目を覚ました。どこからか水音が聞こえてくる。隣りを見ると、みちるがいない。トイレか、と一人で納得し、また眠りに落ちていく。
 しばらくして、また浅い眠りから覚めた。やはりまだ、微かに水音がする。隣りのみちるは、まだ帰ってきていない。置き時計を手に取って見ると、午前1時40分を少し回ったところ。風呂にでも入って上せたのか、と少し心配になる。毛布をはぎ、床に落ちているズボンを拾う。それを履いてそのまま出ていこうかと思ったが、何となく胸を隠していく気になってカッターシャツを探す。しかしカッターシャツは見当たらない。代わりに、アンダーウェアとして着用していたTシャツを拾い上げた。ドアのほうを見ると、扉が少し開いていて、廊下から光が洩れていた。

 バスルームの方に歩いていくと、電灯がついていた。ここにいたのか、とほっとする。近づくにつれて、チャパチャパと何かを洗っている音が聞き取れてきた。風呂手前の洗面所。みちるははるかのカッターシャツを羽織っただけの姿で、何かを洗っている。はるかはそっと近づいて、鏡の中のみちるを見た。…手を洗っている。近づいてきたはるかには、何の反応もしない。しばらく前に自分達の蜜で汚れた手を洗っているのだろう、とはるかは思った。軽い気持ちで、声をかける。
「そんなに汚れた?」
 みちるは答えない。声が水音に掻き消されてしまわないように、至近距離に顔を寄せて呟いたにも関わらず、だ。再び鏡を見るも、やはり手には何も持っていない様子。顔を覗き込むと、微笑んではいないことが確認できた。むしろ何かに怯えてるように、必死に手を洗い続けている。名前を呼ぶ。やはり応答はない。見かねて蛇口を閉める。みちるははっとして、ようやくはるかを認識した。鏡越しに合った薄浅葱の瞳には、恐怖と驚きが含まれていた。
「どうした?」
 左手で蛇口をまだ押えた体制のまま、みちるの手に視線を落として質問する。我に返ったかみちるは、鏡の中に映っているはるかから目を背け、とりあえず黙してしまう。はるかは待った。何か後ろめたいことがあるのか、と半ば推測を始める。
「…とれないの。この前付いた血…」
 白い手についた水滴は、どれも十分な透明度を持っていた。はるかの見る限りでは、一つも赤みを帯びているものはない。…あれからだいぶ日数は経過している。第一、変身を解いた直後の手にも血痕は残っていなかったはず。妄想に駆られているのだろう。そう哀しく推測しつつも、みちるの白い手をよく観察する。やはり何もついてはいない。ポーカーフェイスを装い、淡々と言葉を返す。
「…。何も付いてないよ。」
 そう言ってはるかは、棚からハンドタオルを一枚とり、みちるに差し出した。みちるは自分の手に視線を落したままで、差し出されたタオルを受け取ろうとしない。仕方なく、相手の手をとって拭いてあげようとする。みちるは拒絶の言葉を小さく叫んで、はるかの手を払った。
「…。大丈夫だって。」
 もう一度、今度はしっかりとみちるの手を掴みにかかる。やはり激しい抵抗に遭ってしまう。薄浅葱色の瞳が、嵐が逆巻く夜の海のように、激しい動揺を見せていた。明らかに、いつものみちると違っていた。諦めてタオルを傍に置き、その場を去ろうかと思案し始める。だがその間に、みちるはまた蛇口に手をかけて水を出し始めてしまった。慌てて蛇口の上の手を押え、流水に差し入れようとされるもう片方の白手も押えつける。
 みちるの抵抗は、先ほどよりひどくなってしまっていた。手をどうしても触られたくないらしく、はるかから必死に逃れようとする。数時間前までは、何の躊躇いもなくはるかの身体に手をあて、そして自由に触れさせてもいたのに。
 …そのうち、手だけを押えれば落ち着いてくれる状況では、なくなってしまっていた。みちるは半狂乱になって、身体を押え込もうとするはるかに激しく抵抗する。「みちる、みちる」と必死に呼びかけながら、興奮してしまった彼女を抱き押えようと試みる。みちるは尚も暴れる。

 必死の攻防の中、はるかは何とかみちるを抱き押えることに成功した。後ろ背に両腕を回させ、大きな手の片方で錠をかけるかように細い手首を掴み押える。高い肩に顎を乗せさせ、もう片腕で相手の肩を完全に押え込む。…みちるが着ていたはるかのカッターシャツは、激しい抗争でだいぶずれ落ち、みちるの鎖骨から肩にかけてのラインを半ば露にしてしまっていた。華奢な作りの白肩が、まだ荒い呼吸で上下している。その上体を、蛍光灯の強い光が蒼白く色づけていた。落ち着くにつれて、また自然と涙が溢れてきた。
 しんとした夜。お互いの息があがっているのだけが、ただ聞き取れた。興奮で熱くなってしまったみちるの身体を抱いたままの状態で、はるかの頭には、ふとある言葉が思い浮かんでいた。その言葉は、はるか自身、生まれて初めて思い及んだものだった。けれども今、確かに断言出来る言葉でもあった。
 別の時期に思い及んでも、恐らくは口にすることのない言葉。それでも今、彼女に確実に伝えておきたいことだった。そのまま音声として口に上らせる。
「…、…。それでも」
 白肩を包み押えていた片腕を、みちるの後ろ手に回す。冷え切った小さな手を、自分の大きな両手でしっかりと包み込む。安心させるように、強く。

「僕は、この手が好きだから。…、…。この手が好きだ。」

 蛍光灯の強い光が、はるかの長身で隠された。淡い闇の中で、みちるの身体がほの白く浮きだつ。はるかの言葉を受けて、その目が幾分見開かれる。彼女の記憶する限りでは、はるかの口から「好き」という言葉が出たのは、そのときが初めてだった。もちろん、こんなときに聞かされる言葉だとは思ってもみなかった。しかしその言葉は、罪悪感と絶望に支配されていた己が心に、一閃の安らぎの光を刺し込ませるだけの十分な効力があった。

―――そうだった。そのために、あのスティックを手にしたのだった。

 もし、自分にも何某かの正義があるというのなら。全ての事柄は、はるかの名の元に正しい意義と解釈をもつ。人として踏み行うべき正義の道は…もう、進めそうにないけれど。たとえメシアが否定しても、はるかの名の元に、はるかを守るためならば。これからも、戦い続けることが出来るかも知れない。たとえそれが…。新たな犠牲を生み出すことに繋がったとしても。
 堪えきれず、みちるの頬を一筋の涙が伝っていった。


Fin.
Photo
Photo:daydreamer
Special Thanks: 美由様
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※この作品は、フィクションです。作品中に登場する名称や出来事は、実在の人物や出来事と一切関係ありません。