Speak Like A Child
初稿掲載日:2004年9月17日/ 最終修正日:2008年10月6日 /現代編追加設定まとめ / 謹呈:有咲様 / 作者:daydreamer
| 6月下旬。気の早い蝉達が狂った様に鳴き始めるのを聞いて、目を覚ます。窓を開けて寝たせいか、部屋の中が湿っぽい。エアコンの本体表示を見ると、室内湿度が80%を示していた。迷わず「除湿」にして、窓辺へと近づく。 気温29℃。今年の東京の6月は、異常に暑い。ニュースや新聞記事によると、特異な気圧配置や地球温暖化が相俟っての高温状態らしいが、それだけでは収まりきれない何かが絡んでいる気がしていた。その予想はセーラー戦士としての直感によるもので、同時に、今日から編入学することになる無限学園の周辺状況を考えても言えることだった。3年前に正式開学した無限学園の周辺では、学校建設当時から奇怪な事件が続いていた。真夏の日中に突然黒い雹が降ったり、局所的な地震が発生したり、建設反対派の家に落雷や隕石の破片がぶつかったり。“珍しい自然現象が、たまたま連続して起こったのでは?”と言えばそれまでだが、なぜ無限学園の周辺で多発するのかは謎のままになっていた。 遮光カーテンを勢い良く開けると、強烈な朝の光に頭が眩んだ。相変わらず無限洲の上空には重たい雲がかかっているが、朝はそれなりに眩しかった。体は既に起きて久しいが、頭はまだ眠っている。アラーム設定時刻の7時まで律儀にカウントを続けている目覚し時計を止めて、バスルームへ向かう。冷たいシャワーを浴びて、真新しい学生服に身を包む。指定された制服は、ネクタイとズボン。そしてカッターシャツ。胸には、一つ星の中に∞をあしらった校章。正規の服装には、これにブレザーが加わる。学ランに比べて襟元が楽になるし、熱がこもらないから、わりと着やすい。…不思議なことは、女子学生服の強要や編入学試験がなかったことだ。事前の編入学申請手続きの際、履歴書と前の学校での成績証明書・生徒手帳を提出すると、新しい生徒手帳と男子学生服の注文表が自動的に送られてきた。入学が許可されたのは、フィジカル・クラス。全国、または世界レベルの若きトップアスリート達が集う体育系コースだ。 それ以外の、面倒臭い書類提出や手続きは求められなかった。学園に子供を預けている保護者の話によると、学外者でも前途有望な学生については、こちらが情報を提示しなくても、学園側で自主的に調査を行って支援の機会を伺っているらしかった。そしてそのようにして学園から注目された存在となるのは、無限学園のネームバリューも手伝って、非常に名誉あることとされていた。…さすが裏で“魔法使い養成学校”と呼ばれるだけのことはある。少しの油断もできない所にこれから行くのだと、改めて気を引き締める。 朝食を簡単に済ませて、バイクを出し、無限学園の駐輪場を目指す。2学期の編入学シーズンを待たずの、強行入学。こんな時期に生徒を受けつけてくれる学園側もかなりの変わり者だが、それ以上に自分達のほうがずっと変わり者であることは否めなかった。なぜならば、自分の才能を高めることが第一目的ではなくて、セーラー戦士としての任務を遂行するために編入学を決めたからだ。提案者は、みちる。無限学園の生徒となって学園内部で潜入捜査を行い、ダイモーンの巣屈やタリスマンの手がかりを探す。そのための身分も、服装も。怪しまれないレベルまで、ひととおり準備できた。 2学期まで待たずにあえて今編入学することにしたのには、それなりの理由があった。一つは、じきにやってくる夏休みを有効利用するため。休みに入れば、学園内は普段より人気が少なくなるから、捜査がしやすくなる。もう一つは、タリスマン探しの時間が無制限ではなく、出来るだけ早期に任務を完了させる必要があるため。…それにみちるも自分も、忙しい。お互いの個人活動を差し置いて、使命のために自由に使える時間は、本当に限られていた。 駐輪場にバイクを止めて、徒歩で通用門をくぐる。事務室のほうに歩いていくと、みちるの姿があった。彼女も入学試験免除で、プロフェッショナル・クラスへの編入学が決まっていた。プロフェッショナル・クラスは、多才多芸な生徒が集う無限学園の中でも、最もレベルの高い学習コースとされている。学業はもちろんのこと、複数の芸術分野に才能を持つ者や国際的な評価を得ている者、政治や経済・外交において日本の将来を担う可能性のある有望な若者達が集められていた。そしてこのクラスだけは当初から入学選考基準が非公開にされていて、授業カリキュラムにも一部不可解なものが含まれていた。そのため他のクラスの者達から“魔女養成クラス”と囁かれる有様だった。…当然、今回の潜入調査での最優先対象の一つだったが、“もしみちると自分のどちらもこのクラスに入れなかったら、どうしよう”という危惧があった。クラスに入れないことには、詳しい調査が難航してしまう。でもそれは杞憂で、みちるがちゃんと選ばれていた。僕は…。選ばれなかったけど、フィジカル・クラスのほうが性に合ってて良い気がした。 書類をもらって事務室から退室しようとすると、事務の人から“今日はちょうど理事長がご在校ですので、ご挨拶なさっていってください”と言われた。こちらとしては、初日から理事長と対面できるのは好都合なこと。なぜならば事前調査の段階で、学園理事長である土萠創一教授には、多数の不可解な点が浮上していたからだ。たとえば4年前の遺伝子工学研究所の爆発事故の際、爆発の規模と被爆地点から見て、土萠創一とその一人娘だけが助かる余地はなかったはず。また学会を追放された後、急速に富を築いて財団法人を設立し、都内の複数の名門私立校や研究施設を資金援助し始めた動機も資金源も、不鮮明な部分が多かった。さらに相手側のトラブルや資金難に乗じて台頭していき、最終的に自分自身がオーナーの椅子を仕留めていったことも、一科学者の手腕としては出来過ぎたシナリオだった。そしてそれらを“無限学園”として統合し、自分の元に優秀な人材を集め始めたことも、その真の目的は不明だった。もう一つ。文献やWEBを探しても、土萠創一の過去に関するデータはほとんど入手できなかった。唯一手に入った情報は、教授がかつて所属していた学会がネット公開していた簡単なプロフィールと研究論文のキャッシュだった。現在はそのページは削除されていて、検索エンジンのキャッシュ機能を使わなければ閲覧することが出来ない状態だ。だからたとえ今日詳しいデータがとれなかったとしても、一度間近で実物に会っておくことは、今後の調査活動において有益だと思われた。 とりあえず普通の生徒の顔をして、“それなら今から、2人で理事長室に伺います”と返答する。事務の人は頷いて、プッシュホンを取り、理事長室へと連絡を入れた。 事務室を出て、エレベーターに向かってみちると一緒に歩き出す。10mくらい進むと、自分と同じくらいの身長の男子学生とすれ違った。その人は振り向きざまに「あ…」と漏らして、みちるのほうを見た。“海王みちるさんじゃないですか”と突然の質問。みちるはその質問に“Yes.”と答えたものの、その人の顔には見覚えないようだった。聞けば、全日本学生音楽コンクールの東京大会本選で、数度顔を合わせてきたとのこと。みちるは曖昧に笑う。その男子生徒の顔は、やはり記憶にないらしかった。…全国大会まで進んで何度も部門制覇している彼女には、そんな地方大会レベルの出場者データが残っていないのも無理ないのかも知れない。それでもみちるは、とりあえず好戦的に“ライバル”に応対している。近々コンクールがまたあるらしく、その男子は威勢の良い言葉を残して去っていった。少しの気疲れ。話している間、その人はみちるの顔をじっと見ていた。はるかのほうには、去り際に少し目礼しただけ。それ以外は完全無視だった。別にそれが不服というわけではないけれど、「この学園にいれば、こういう人に、これからたくさん会うことになるんだな…」と思うと、ちょっと気が滅入ってしまっている自分がいた。 1週間も経つと、学園の大体の雰囲気が掴めてきた。だだっ広い敷地。味気ない高層ビル群と、釣れないビル風。時々人と会えば、すぐにピンと張り詰めた雰囲気になる。生徒も、教官も。ここでは学園内にいる全員が、自分のライバルらしかった。それに勉強や特技を伸ばすうえで支障となるものは、極力カットされている。毎日の教室掃除も、皆で集まっての昼食も。都立中学にいた頃は掃除は毎日皆でやっていたのに、ここでは業者がやってくれる。外国では普通だが、日本ではまだまだ珍しい光景らしい。昼食も、日本では教室内に班を作って皆で食べていたのに、ここではバラバラだ。どこで食べてもいいし、そのまま勉強に没頭していてもいい。休み時間も勉強したい人のためには、自習室の個別ブースが無償提供されていた。 教室には大きなテレビスクリーンが1つと、1人1台ずつのノートPC。授業では、プレゼンテーション・ソフトで作成された視覚教材が多用され、ノート代わりにPCを開く。授業の内容は、後日学校のWEBサイトからPDF形式でダウンロードできるように整備されていた。また生の授業以外にも、サテライン授業や体験授業が多く開講され、はるかのように試合やレースで遠方に行く機会が多い生徒や、リアルタイムで授業を受けられない生徒にも十分な配慮がなされていた。課題の提出も、多くは電子メールに添付する等のオンライン形式で。教官はそれをプリントアウトして添削し、後日に学内メール便で各生徒用のメールボックスに返却してくる。学内メール便すら受け取るのが難しい生徒には、教官が課題をPCで赤ペン添削して、オンライン経由で返却する。教官への質問も、従来の直接訪問以外に、PCを使ったIP電話やテレビ電話、メッセンジャー、Skypeなど色々な方法で行うことができた。つまり本人さえやる気を出せば、いつでもどこでも存分に学べる体制が整っている学校だといえた。 ただ、親しい友人を作るには、難しい環境であるように思えた。学校に行かなくてもPCなどを使って十分に学べるということは、ちゃんと学校に通っている同級生達と直に触れ合う機会がなくなることも含意している。「友達なんて必要ない」といえば確かにそうだが、ここまでセパレートな環境を作っている学校も珍しい。「授業料が馬鹿高い」と夏海さんが嘆いていたのも、何となく頷ける気がした。 幸い、簡単な話し友達程度なら、自分から作らなくても出来ていった。厳密に言えば友達ではなく、自分の個人活動――モータースポーツと陸上競技――に興味を持っている人が寄ってきたに過ぎないのだが。話し友達は女子のほうがやはり多かったが、モータースポーツ自体が好きな人は、男子に多かった。また、さすがにフィジカル・クラスというだけのことはあって、クラスメイトは全員スポーツ選手だった。そのせいか体育会系特有のノリの良さがあって、クラスの雰囲気も思ったほど殺伐としたものではなかった。そういうわけで、当初の予想ほど孤立した学校生活を送らずに済んでいた。 ある日の昼休みのことだった。みちるがいないときに、クラスメイトの女の子がやってきて、こんな質問をしてきた。 「天王さんと、プロフェッショナル・クラスの海王みちるさんって、仲良いですよね。帰りもいつも一緒だし。…付き合ってるみたい。」 微妙に電波の入った言葉に、はるかは内心ひっかかりを覚えた。まだ日の浅い友人に、自分とみちると付き合ってるなんて全然的外れな分析をされるのは、心外だった。また一瞬“自分達の目的に感づかれたか”とヒヤッとするも、そんなはずはない、とすぐに思い返す。なぜならばその女の子からは邪気が感じられず、雰囲気からも危険な香りが全くしなかったから。…それにその人は、普段はテニスボールを辺りが暗くなるまで追いかける生活を送っている、明朗快活なスポーツ少女だった。海外での試合や強化合宿に追われる彼女は、プロを目指してもっと世界で活躍するために、今年5月に九州の中学校からこちらに転校してきたばかりの人だ。すなわち自分達と同様、まだ“洗脳”されたり“何か危険な物事の実験体”になっていないだろうと思われる人物だった。でも年柄、恋愛の話は好物なのだろう。色々考えているとだんだん馬鹿らしくなってきて、はるかはさっさと事態の否定に取りかかり始めた。 「途中まで帰り道が一緒だから、一緒に帰ってるだけだよ。別に、普通の友達。」 女の子は、少し驚いたような顔をした。それはただの、ゴシップ好きの蜜蜂の顔だった。“何だ、ただのひやかしか…”と半ば安堵し、半ば機嫌を損ねる。机越しに、好奇心に満ちた瞳がはるかに向けられていた。 「“友達”って。付き合ってる人とかいないんですか?」 「……。いないけど。」 「海王さんのほうは?」 その質問を受けたとき、はるかは自分のこと以上に“え?”と思った。別にみちるのことで自分が何か思う必要はなかったが、まだ日が浅いクラスメイトにみちるのプライベートなことを聞かれるのが意外だった。自分のことならまだしも、みちるのことを言う義務なんてない。それに…。みちるが誰かと付き合っているなんて話は、聞いたことがなかった。聞いていたとしても、本人の許可なく他人に言うつもりは全くなかった。 「さあ。そういう話、全然しないから。」 だんだん自分の物言いがぶっきらぼうになっていくのが、自分でもわかった。なぜ誰かと一緒にいると、すぐ“付き合ってる”とか“好きなの?”とかそういう話になるんだろう。みちるはただの友達なのに。 イライラが募り始めたはるかは、昼食用に買って来た紙パック入りグレープフルーツ・ジュースをいつの間にか強く握っていた。そのせいで、ストロー指し込み口からライトイエローの液体が少し溢れ出してしまっている。眼前のテニス少女は、そんなはるかの変化に気づかない。そしてさらなる不躾な質問をぶつけてきた。 「え。じゃあ、何をいつもそんなに話してるんですか?」 はるかは紙パックのジュースを机に置いて、少し不機嫌そうに腕組みをした。しかしその女の子は、その程度の変化は気にかけなかった。 「何って…。授業のこととか、お互いの活動のこととか。僕達はまだ転校してきて日が浅いし。同期の編入生どうし、色々話してるだけだけど。」 「ふーん…。」 テニス少女は意味ありげに含み笑して、一旦間を置いた。真っ黒に日焼けした笑顔が、何だか憎憎しい。“ふーん、じゃないだろ”と内心かなり機嫌を損ねながら、とりあえずその場をやり過ごす。…ダイモーン捜索のための編入学とはいえ、この学校では、生き難い。さっさと“用事”を済ませて、元の学校に戻りたいとさえ思った。 幸い、その直後に火災報知機が突然鳴って、会話が途切れた。まもなくして臨時の校内放送が入り、21階に入っている大学理学部の学生実験室でボヤが起こったと放送された。 そのときはそれで乗りきれたが、一つ、まだひっかかっていることがあった。 ―――付き合ってる人とかいないんですか? 海王さんのほうは? そんな話は、今までみちるに聞いたことなかった。みちるの人柄や実家のこと、特技や才能については、他の人よりも話を聞いている自信があったが、恋愛の話に関しては、そういえばほぼ全くしたことがない。強いて言えば、しばらく前に喫茶店で彼女を拒絶したときに、やたらと傷つかれたことくらいだ。でもそれは、別に恋愛感情と呼べるほど強いものかわからなかったし、対象もはるか自身に向けられたものだった。自分以外の誰かに向けられた感情については、過去も現在も全く知らない。“知ってどうするのだ”という根本的な疑問があったが、みちるの人となりを見ていると、いてもおかしくない気がした。…たしかにみちるは、一般的に見て美人だし、頭も良い。性格も大らかで、誰とでも話すことが出来る。しかも実家は世界に名を馳せる海王グループで、本人もヴァイオリニスト・画家として有名。男子に放っておかれるわけない。でもみちるは、なぜか全然そういう素振りを見せない。異性で最もみちると深く関わっている人といえば…。執事の牧野さんくらいだ。…なぜ? なぜあれだけ美人なのに、異性の影がないのか。 …自分がいるから? 使命のためにここ最近ずっと彼女は、放課後や週末を自分と一緒に過ごしてるから? ごちゃごちゃと考えては“馬鹿らしい”と思考中断して、溜息をつく。2日置きの作戦会議の時間が、今日も近づいてきていた。頭をブンブンと振って邪念を振り飛ばし、待ち合わせ場所の屋上展望台に向かう。と、行き際に、教官室前の廊下でみちるを見つけた。横には、背の高い男子。遠巻きに見ると、二人は楽しそうに話しているように見えた。みちるも笑いながら、何かを話している。別に何でもないシーンだったが、何だか早速現実を見せられたような気がした。“異性の影”は、あるではないか。自分がいなければ、すぐに現れるもの。…だとすれば必要以上にみちると接触するのは、迷惑なことかも知れない。みちるは気を使ってるのか、自分の前ではそういう素振りを全く見せないけれど。…もちろん、今の自分が何だかとても独り善がりな思考をしているのは、はるか自身承知していた。けれど何となく、そのままみちると男子の談笑模様を眺めている気にはなれなかった。せっかく男っ気のあるみちるを確認できたのに、とくに嬉しくもなかった。 はるかはその場ではみちるに声をかけずに、フロア隅にあるエレベーターに乗って、先に屋上に向かった。 その後、はるかはみちるを何となく避け始めた。もちろん2日置きの作戦会議や学園内の偵察・ダイモーンの始末の際は行動を共にしたが、それ以外の雑多なことでは、極力みちるとの接触を避けるようになっていた。そういうはるかの態度を見て、みちるは少なからず気にしているようだった。でも一時的にそうだとしても、時が過ぎれば、この状況は当たり前になる。僕達はワークパートナー。それ以上でも、それ以下の関係でもない。だからお互いのプライベートに、必要以上に踏み入る権利はないと思っていた。もちろん踏み入りかけていたのは、自分のほう。みちるのほうは、こちらが何も言わなくてもちゃんと距離を保っている。 ある日、下校のために下足棟に行くと、紙切れが入っていた。紙のゴミ箱みたいにやたら折り込んであるので、折り紙かと思うと、手紙だった。表面の一番見えるところに“Dear Haruka”と書かれてある。裏を返す。差出人は、みちるだった。そのままその場で、開封する。 『最近、避けてるみたいだけど。 どうかしたの? 今日またバイク屋さんに行くから、そのときにでも言ってよ。』 やや右下がり気味の綺麗な字で、そう書かれてあった。私的なことで大事だと思っていることは、メールなどの電子媒体経由でなく、手紙か口頭で言うのが彼女の特徴。自分の態度の変化をそれなりに気にしてるんだな、と改めて思い知る。でも急に態度を変えた理由を、まさかみちるに言うわけにはいかない。“どう説明しようかな…”と思案しながら、手紙を四つ折りにして、胸ポケットにしまう。下校時の下足棟の喧騒が、再び耳に入ってきた。 夕方。みちるは宣言通り、はるかが日頃世話になっているバイクショップに現れた。みちるが来た時、店内にはるかの姿はなかった。仕方なくみちるは、事務所の奥で休憩している男性従業員に声を掛けた。事務用の回転椅子にうっかかって夕方のローカル番組に見ていたその人は、みちるの来訪を受けて、弾かれたように起き上がった。だらしなく弛緩していた顔の筋肉を一度引き締めて、現れたみちるに用件を聞く。そして次第にニコニコ顔になっていった。 「おー。最近よく見かけるけど、はるかちゃんの友達だっけ?」 「はい。どうも。あの、天王さんは…。今日はいらっしゃってますか?」 「ああ、来てる来てる。今さっき社長達と一緒に工場のほうに行ったばかりだから、終わるまで、まだ結構時間かかると思うよ。事務所のほうで、お茶でもあがってなよ。」 みちるは軽く礼を行って、すすめられた椅子に座った。それと入れ替わるようにして、男性従業員は席を立ち、給湯室に向かった。しばらくすると、お茶ではなくコーヒーの匂いがし始めた。実を言うと、コーヒーは苦手だった。香りは好きだが、苦味がダメなのだ。しかし来客の分際で今さらあれこれ申したてても、全てが遅すぎる気がした。ほどなく、ミルクとスティック砂糖を載せたコーヒーカップが目の前に置かれた。男子従業員は“コーヒーで良かった?”と今さら確認しつつ、向かいの椅子に座る。みちるは無言で、軽く頷いた。そのとき何の根拠もなかったが、少し嫌な予感がした。 しばしの沈黙のうちに、ミルクと砂糖をコーヒーに加える。スプーンでそれらを掻き回していると、早速質問攻めが始まった。 「何か毎週来てるみたいだけど、はるかちゃんのフリークのコ?」 コーヒーカップから、少し顔を上げる。テレビとみちるの顔を、交互に落ち着きなく見ている男子従業員の姿があった。よく見ると若い人で、20歳前後。人懐っこい顔をしている。ツナギを着ているから、事務職ではなくきっと整備士として働いているのだろう。出されたコーヒーを一口だけ口に運んで、みちるは口を開いた。 「いえ、そういうのではないのですけど…。中学校が一緒で、色々と連絡事や渡すものがあって。…天王さん、忙しいから。」 「あー、そうだねえ…。何たって、日本初のジュニアレーサーだもんな。ん、そういえば…名前は?」 「海王みちるです。」 「みちるちゃんか。そういえば、どっかで見た気がするんだけど…。みちるちゃんも有名人?」 「いえ、違います。」 そう聞かれて“そうです”などと答える人は、どの位いるのだろうか。みちるは内心苦笑した。それに、暇つぶしの会話で相手に不必要な情報まで与えてしまって、その後の行動が取り辛くなるなんて、馬鹿らしい気がした。 「ふーん…。ま、いいや。お茶菓子持ってくるから、ゆっくりしててよ。俺はもうすぐ休憩終わっちゃうけど。」 そう言うと、男子従業員は席を立った。ゆっくり出来ない状況の中、みちるは一つ小さく溜息をついた。 結局その日は、はるかのバイク調整が遅くまでかかって、みちるは先に帰ってしまった。はるかが事務所に戻ってくると、みちるが差し入れで持ってきたらしいオニギリとスポーツドリンクが置かれていた。みちるに応対したらしい2級整備士の真木さんは、みちるのことを甚く気に入ったらしく、“あのコ、来週も来るの?”と質問してくる有様だった。“Yes.”と答えるとあからさまに喜ばれて、何となく腑に落ちない自分がいた。 それからの1週間、はるかは相変わらず素っ気無い態度でみちるに応対した。みちるのクラスに比べて授業コマ数が少ないはるかは、それを口実に先に帰ったり学校内で雲隠れしたりしていた。なぜ避けるのか。“自分がいると、みちるが自由に振舞えないから。”“相手のプライベートなことにまで立ち入る必要はないから”というのが当初の理由だったが、最近は何だか別の感情も芽生えてきていた。みちるが他の男子と楽しそうに話しているのを見るのが、何だか嫌だった。何で嫌なのか。それは自分でも、はっきりとはわからなかった。けれどそういう状況に遭遇すると、自分が知らないみちるを見ている気がして、嫌だった。…それは別に、みちるの全てを知る必要はない。誰を好きになろうが、嫌いになろうが、彼女次第だ。でもこの孤独感のようなものは…。何なんだろう。学校やその他の場所で、知らないみちるを見る度に、ふっと淋しくなる。自分は彼女にとってワークパートナーでしかないという事実を、改めて思い知る。海王みちるとは、セーラー戦士としての使命を果たすためだけに一時的に接触しているに過ぎないのだと。…。…馬鹿らしい。もともとそう望んでいたじゃないか。この使命が終われば、晴れてみちるとの関係は切れて、普通の生活に戻れるのだと。それにもともと自分は…。独りだったじゃないか。これまでもこれからも、その事実は変わらない。今さらそのことを嘆いて、どうするというのだ。みちるが現れたからといって、その事実が揺るぐことはない。甘えたことなど、言っていてはいけない。 しばらくモヤモヤと感傷に浸っていた自分に、心の中で喝を入れる。何だか急に走りたくなって、教室の窓から、運動場の陸上競技用トラックを見た。 1週間後。みちるはまたバイク屋に現れた。先週より少し、遅い時間帯に。その日みちるは学校ではるかに会えず、メールでも通信機でも連絡がとれなかった。ただ、ここに来れば今日はるかに会えるかも知れないことはを知っていた。つまり集合場所の詳しい打ち合わせが出来ないまま、その場所に来ていた。作戦会議日とはいえ、半ば押しかけ状態。はるかと会ったら、少なからず困った顔をされるだろう。…最近のはるかの様子も、気にならずにはいられない。先週同様また事務所に行くと、店内は空っぽだった。いつもいる事務の女性の姿もない。仕方なく立って待たせてもらっていると、店の自動ドアが開いた。見ると、先週しつこく絡んできた若い整備士の男性が入ってきた。みちるを見るとまたニコニコ顔になって、椅子をすすめてくる。みちるはまた嫌な予感がしながらも、すすめられた椅子に腰掛けた。 運悪くまたその人に捕まってしまったみちるは、挨拶もそこそこに、早速アタックを開始された。 「今度の日曜とか暇? 暇なら映画見に行かない?」 「…。ごめんなさい、用事があって。」 「あ、そっか…。じゃ、その次の日曜は? 何ならバイクで迎えにいくけど。」 「…。」 真木さんは全くめげる気配がなく、せっせとみちるを口説き続ける。みちるは、“ヴァイオリン”と“使命”と“家の者が…”という言葉を使わずに、自分にその気がないことを相手に伝えることに苦労していた。しばらくすると、後ろでザーッと風が流れる音がして、誰かが事務所に入ってきた。振り向くと、中年男性2人とはるかが自動ドアを通過してきていた。みちるは“助かった…”と思った。 はるかは、みちるがそんな状況に陥っているとも知らず、バイクショップの社長らと共に休憩のために事務所に戻ってきた。見ると、真木さんがみちるに覆い被さるようにして、話し掛けているところだった。これじゃまるで、キスする体勢だ。みちるはかなり逃げ腰になっているものの、苦笑いしながらやり過ごしていた。心の中に、ドスッと何か太いものが突き刺さるのを感じた。いつもいるはずの事務の女性は、今は席を外しているらしく姿が見えない。 真木さんは、社長と自分の顔を見て、やはり苦笑いしながらゆっくりとみちるから離れた。彼はしばらく前に社長から、持ち込みの原付のタイヤ交換を頼まれて、事務所のほうに向かったはずだった。それが終わった後で、みちると遭遇したのだろうか。みちるははるかと目を合わせようとしたが、はるかは反射的にみちるから目を逸らして、その場でのアイコンタクトを避けた。 しばし沈黙の後。社長は半ば呆れながら、真木さんに新たな仕事を言いつけた。 「真木、××××に注文してたレーシング用ブレーキパッドだけど、さっき電話で“届いた”って連絡あったから、至急取りに行ってくんないかな。あっちに任せると、配達は明日の昼過ぎになるそうだからさ。ついでに△△のヴィンテージゴーグルで、いいのが入荷してないか見てきてくれよ。 …ああ、こんにちは。 …。 …ほら、真木、仕事再開だ!女の子にちょっかいばっかり出してないで。」 社長につつかれて、真木さんはそそくさとその場を去っていった。程なく、配達用のバイクのエンジン音がして、遠くなっていった。事務所に残ったのは、みちると自分と社長・工場長。しばらくすると、事務の女性も帰ってきた。近くのホームセンターの特売日だということで、無断外出して事務所の備品を買いに行っていたらしい。社長は然して怒る素振りも見せずに、女性の説明を聞きながら買い物袋の中身を覗いた。そして「へえー…。こんなのが安かったんだね。」とだけ言って、顔を上げた。それからすぐにみちるのことを思い出して、“お客さん”に接待をするように指示した。みちるは椅子から立ちあがってはるかの元に歩みよろうとしたが、はるかは反射的に身を引いて拒絶した。そして油汚れした手を洗うために、洗面所に向かった。 しばらくしてはるかの用事が済み、2人は一緒に帰途に着いた。まっすぐ家には帰らず、近くの公園に寄って、今後の作戦会議を行う。みちるは久しぶりにはるかとまともに話せる機会を得て、少し緊張していた。一方のはるかは、なぜか全然みちると目を合わせようとしない。とりあえず、連絡が取れなくて仕方なくバイク屋に押しかけたことを詫び、今後のダイモーン捜索についての計画を話す。はるかは言葉少なく、何だか怒っているような顔をして、みちるの話に耳を傾け続けた。一通り話し終わった後で意見を求めると、しばしの沈黙の後、ぶっきらぼうな言葉が返ってきた。 「待ち合わせ場所さ、これからは別のところにしない? …仕事の邪魔になってるから。」 はるかは不機嫌そうにそう言いきって、少し遠くの地面を見た。普通に考えれば、連絡を受け取っていたのに返事しなかったはるかのほうが悪いのだが、あまりの不機嫌ぶりに、みちるは何だか自分のほうが悪いような気がしてしまっていた。第一、全然目を合わせようとしてくれない。…もしかしたら最近元気がなかったのは、自分が彼女の個人活動やプライベートな部分を、知らずに侵してしまっていたからなのかも知れない。自分と一緒にいることのストレスによって、はるかの態度はこんなにも硬化してしてしまっている。 みちるは、不意に泣きそうになった。はるかのことなら、誰よりもよく知っているつもりだった。けれど知らないうちに失態を演じて、彼女を怒らせてしまっている。愛情余って、いつの間にか傲慢になっていたのも知れない。 突然訪れた重い沈黙に押し潰されそうになりながら、みちるは何とか口を開いた。 「……、…。わかったわ。いきなり押しかけて、ごめんなさい。」 そう言った後みちるは、来週の集合場所を無限学園の図書館本館と提案した。はるかから異存はなかった。時刻は、午後7時15分。みちるは学生カバンを抱いて、長椅子から立ちあがった。『送る』と立ちあがるはるかを制して、前へ進む。“今日は寄っていく場所があるから、いいわ。”と嘘をつく。だいぶ濃くなってきた夕闇が、みちるの表情の微妙な変化を隠していた。はるかからは、それ以上の申し出はなかった。 帰り道、みちるは涙で視界が潤むのをやり過ごしながら、電車を使って海王洲のコンドミニアムを目指した。もちろん電話をすれば牧野が迎えに来てくれるだろうし、コンドミニアムにではなく海王家の本邸に戻る時間的余裕もあった。しかし誰にも…執事の牧野にさえ、いまの自分を見られたくなかった。 それから1週間。はるかのことを思って、みちるも距離をとるようになっていた。その模様は本人達が思っている以上に周囲の目に触れていたらしく、気にした人達から以下のような質問をされる有様だった。 「最近、海王さん元気ないみたいですけど、何かあったんですか?」 それは体育のスポーツテスト記録取りのときだった。ハンドボール投げの順番待ちをしていると、不意に声が掛けられた。横を見ると、転校直後にもみちるとの関係を質問してきたテニス少女がいた。ときた…。時田知子。そういえば名前的に見て、出席番号が近い人だ。またゴシップ好きの蜜蜂につかまったと、内心不機嫌になりながら、至って簡潔な回答を用意する。悪い人ではないけれど、何の前触れもなくクイックトスを上げてくるのは止めてほしい。 「…別に何もないけど。」 はるかは、先に終わった人からボールを受け取って、ポンポンッと宙に放り投げ始めた。しばらくして時田さんも自分のボールを受け取り、暇を持て余してはるかの真似を始めてしまった。 「え。だって最近は、2人とも別行動とってるじゃないですか。」 少し高めに放り投げたボールを、はるかはリバウンドをとるようにジャンプキャッチした。動いていないと、間が持たない。早く自分の順番が来い。 それまで大人しくしていた他のクラスメイト達も、はるかと時田さんがボール遊びに興じているのを見て、鞠つきやらリフティングやら、数人でのミニバレーやらを始めてしまった。暇さえあれば楽しく体を動かそうとするのは、スポーツ集団であるフィジカル・クラスの特徴。しばらくすると、状況を見かねたTA(ティーチング・アシスタント)の照野さんが、皆を一喝した。見ると、仁王立ちしてこちらを睨んでいる。しんと静まり返る中、はるかも皆もボール遊びを止めてしまった。隣の時田さんに、少し小声で話しかける。 「ああ、ええと…。みちるは秋にあるコンクールの準備で、忙しいらしいから。僕もレースの調整で詰まってるし。それぞれのリズムで動いたほうが、今は楽なんだ。」 「そうなんですか…。でも」 不意に、周辺から歓声が上がった。トラックの上空を見ると、やたら遠くまでボールが上がっていた。記録は48.5m。…飛び過ぎだ。投げたのは、全国トップの陸上投てき競技選手だった。球の軌跡を見て、何だか納得いかなそうに首を傾げた後、次のテスト種目である懸垂のほうに歩いていく。一通りの歓声と興奮が収まった後、時田さんがまた何か言おうとしたが、はるかが投げる順番が回ってきたため会話はそのまま中断された。 別の日。作戦会議のための接触とは別に、はるかはみちるに遭遇した。正確に言えば、保健室で仮眠をとらせてもらっていると、いつの間にかみちるが来ていたということ。遮光カーテン越しに聞き慣れた声を耳にして、目を覚ます。声の主がみちるであることは確かだが、誰かもう一人いる。それは保健室の女の先生ではなく、男子の声だった。まだ夢うつつの状態のまま、カーテンの向こうをぼーっと観察する。何やら楽しそうに、そして甘い雰囲気で会話している気がした。少なくとも、相手の男子は楽しそうだ。一方のみちるは、困っているような楽しんでいるような、曖昧な態度でその男子に接している。話をこのまま盗み聞きするのも何だか気が引ける気がして、起きあがろうとしたとき。男子生徒が、ある質問をみちるにぶつけた。 「海王さん、好きな人いるんですか?」 いきなりのシビアな展開に、はるかはおでこをパシッと叩かれた気がした。告白の現場にでも遭遇したか。だとすれば自分がここにいて、いいのだろうか。起きてしまったことを伝えるべきか、それとも寝たふりをしていたほうがいいのだろうか。判断しかねる状況の中、はるかはとりあえずまだベッドから動かなかった。みちるはその男子からの質問に、すぐには答えなかった。男子生徒はみちるの沈黙を“Yes.”ととったらしく、めげる気配もなく次のような言葉を続けた。 「俺、待ちますから。」 耳を疑う発言に、ベッドの中ではるかは硬直した。“待ちますから”って…、何のドラマの模倣だろう。そんなにみちるのことが好きなのだろうか。外野ながら、心中落ち着かない状況に陥り始めていた。 「“待つ”って…。そう言われても」 苦笑しているみちるの姿をカーテン越しに想像して、はるかは何か釈然としないものを感じた。その後のみちるの言動を聞きたくなくて、ガバッと勢い良くベッドから起きあがる。いかにも今起きたように演技しながら、カーテンから出る。みちるははるかを見て驚き、すぐに心配そうな表情を見せた。隣にいる男子は、突然現れたはるかを見て“?”という顔をしていた。もちろん見覚えのない顔だった。保健室の先生の姿はない。みちるは会話を中断して、はるかのほうに歩み寄ろうとした。 「大丈夫なの? 教室に行ったらクラスの人が“保健室に行った”って教えてくれて、来たんだけど…。」 “大丈夫”と言うと、みちるは少し安心したような表情を見せた。まだ何か話したそうだったが、はるかのほうは何も話したくなかった。“トイレ”と適当な理由をつけて、はるかはその場を去った。 残ったみちるは、はるかの後をすぐに追いかけたかったが、まだお荷物が残っていた。視線を、はるかが出ていったドアから、元の位置に戻す。眼前には、初等部5年芸能クラスの男子生徒がいた。本人によれば、世間では若手の人気アイドルグループの一人として有名な人らしい。しかしみちるにとっては、そんなことはどうでも良かった。なぜならば全くその気がなかったから。みちるが保健室に来る途中で突然現れて、そのままここに付いて来てしまっただけのこと。今日会ったことが偶然なのか必然なのかはわからないけれど…。ただ、ここまではっきりと告白されると、こちらもそれなりの応対をする必要がある。みちるは、自分と男子生徒との間合いがまだ保たれていることを確認した後、口を開いた。 「お気持ちは嬉しいけど、私より素敵な娘は、この学園内にたくさんおいでだと思うわ。…。ごめんなさい。」 その言葉を聞いて、男子生徒は明らかに落胆した表情になった。まだ笑ってはいるものの、何か言い返すのは困難な状態に陥っているらしかった。みちるもそれ以上何も言わず、その男子を残して保健室を後にした。 2日後。定例の作戦会議・捜査日が来た。今日は、別館のコミュニケーションフロア噴水前で待ち合わせ。午後5時。はるかは、噴水の近くにみちるがやって来るなり、スタスタと歩き出した。…みちるの方にではなく、今日調べる予定の目的地に向かって。 「はるか。ちょっと…。待ってよ!」 せっかく落ち合ったのにまた冷淡な応対をされたみちるは、小走りではるかに追いついた。みちるのほうが怒っても全然不思議でない状況だったが、今のはるかは“使命”のこと以外ではみちると言葉を交わすのも難しい状態だった。…普通の女友達なら、“この前、誰々さんに告白されてたでしょ? それで、どう返事したの?”と興味津々の顔をしてみちるに接するのだろう。でも自分は、そんな気になれなかった。それは無関心ということではなくて、気になり過ぎているためだった。“Yesと返事したわ”などと聞かされると、それなりにショックを受ける気がした。…ショック? なぜショック? みちるは友達なのに。僕は女なのに。でも“誰かに盗られる”と思ったら、落ち着いていられなくなった。 いつのまにか、みちるが自分の傍にいることを、当たり前のように思っていた。最初から、その存在をあまりにも簡単に手に入れてしまっていたため、存在の大事さに気づかなかった。初夏に陸上競技場で初めて会ったときから、彼女はずっと自分に対して好意的だったから。空気や水みたいに、とくに努力しなくてもそこに在るものだと認識していた。でもこの学校に転校してきて、みちるが自分以外の人――とくに異性――と交わっている現場に遭遇するうちに、あることに気づいた。本当は、使命に関すること以外では、みちるが自分と一緒にいる必然性はないのだということ。水も空気も、本当は自分が努力しなければ綺麗なものは手に入らない。…これまでみちるを惹き付けるために努力してきたのは、自分じゃなくてウラヌスだった。前世のウラヌスが、ネプチューンを離すまいとずっと努力してきた貯金で、今の自分の元にみちるが寄ってきた、というだけのこと。貯金はいつかはなくなる。そのとき、当たり前と思っていたことが当たり前じゃなくなる。今の自分は、ただあぐらをかいてウラヌスの貯金を食い潰しているだけだ。みちるに傍にいてほしいのなら、努力しなければならない。 …。“みちるに傍にいてほしいのなら”? みちるがいないと、嫌なのか? みちるじゃないと、ダメなのか? ……。僕は……。どうしたんだ。 何でこんなに、ワガママになってるんだ? この感情は、初めてだ。どういう言葉で表していいのかわからないけれど、たしかに存在している感情。みちるに対してだけ抱いている、特殊な感情。保護者である夏海さんにも、陸上とモータースポーツを通して知り合った友人知人にも、他のフリークの女の子にも抱いたことがない感情だった。 相変わらずみちるの横を無言でスタスタと歩きながら、はるかは難しい顔をして、髪を掻きあげた。 みちるはそんなはるかを見ながら、彼女の心模様を推測し続けた。はるかが向かっているのは、この広いフロアの隅にあるエレベーター。そこから40階まで上がって、ビル同士を繋ぐ連絡通路を通り、今日の調査ポイントである3号館考古学展示室へと向かう。久しぶりに2人で横に並んで歩いてみると、はるかの様子はやはりおかしかった。最初はこちらのことを無視して早歩きしていたのに、まもなくすると徐々にみちるの歩調に合わせ始めた。そしてその雰囲気は一見すると威圧的だが、思ったほど自分のことを嫌がっていないようにも感じられた。歩いていて、腕の側面が触れ合ったりしても、全然嫌がる気配がなかった。…そもそもはるかの様子がおかしくなったのは、この学園に編入学した直後から。帰国子女である彼女には、日本の私立中学校は合わなかったのかも知れない。それに…。陸上競技場で出会った当初はあんなに嫌っていた自分――海王みちる――と、使命のためとはいえ、今の学校では毎日のように顔を合わせなければならない。慣れるのは大変だっただろう。…実はまだ全然慣れてなくて、ただ強がって応対しているだけなのかも知れないけれど。またバイク屋の仕事やプライベートな部分も、自分は知らずに侵してしまっていた。そういう状況で、だんだんとストレスが溜まって、はるかはこんな風に不機嫌になってしまったのかも知れない…。 自分の苦労を横に置いといて、みちるはとりあえずはるかのことを思いやった。無言のはるかに掛ける言葉をしばらくの間考えて、結局ストレートな質問を用意する。 「バイク屋さんの仕事を邪魔してたこと、まだ怒ってるの?」 「…。」 はるかは足を止めず、相変わらずの無言で進み続ける。何も言わないのは、この場合“Yes.”ということ。何となくピンと張った雰囲気の中、みちるは次なる言葉を探し始めた。自分が話さなければ、はるかは何も話さないだろう。はるかを観察する限りでは、彼女が長らく機嫌を損ねているのは、自分のせいらしいから。はっきりとした原因はわからないが、とにかく話さないことには、何もわからないと思った。また、タリスマン探しの時間が無制限でないことも考えると、これ以上はるかとのコミュニケーションに支障をきたすのは大幅なタイムロスになる可能性があった。 「ごめんなさい。もういきなり行ったりしないから。でも、そろそろ週末のデータ整理も再開しないと。」 「……。そうだけど。」 「“バイク屋はダメ”ってでしょ。もちろん作業場所は別に考えるから。…S区のT喫茶店とかは?」 「…。人が多すぎる。」 言われてみると尤もな意見に、みちるは別の候補地を考え始めた。 「K区のファミリーレストランは?」 「あそこ、コーヒーが美味しくないよ。」 今度はみちるは、しばらく思考を中断してしまった。K区にあるファミリーレストランは、いつ行っても空いていることで有名な店だった。もちろんみちる自身が実際に行ったわけではなく、人から聞いた話だったが。その店は、サラリーマンや学生で賑わうはずのお昼時でも、客がまばららしかった。だから、あそこでノートPCを開いてデータ整理や作戦会議をしても、誰も気に留めはしないだろう。恐らくレストランの従業員さえも。もちろん客が来ないのは料理が美味しくないからに他ならないが、自分達の目的は、週末のデータ整理。あの店で食事することが目的ではない。だからコーヒーが美味いか不味いかは、この際どうでも良い気がするが…。とりあえず、やっと話し始めたはるかの主張を受け入れることに。その後、数ヶ所の新たな候補地を挙げてみたが、はるかがOKと言ってくれる場所はなかった。“そんなにダメ出しばっかりするのなら、自分も候補地を挙げてよ”と言いたいのは山々だったが、言ってしまうと、はるかはまた機嫌を損ねる気がした。しばらくまた考えて、全く新しい候補地を思いつく。“Yes.”と言ってもらえなくても、この際片っ端から挙げていこうと思った。 「じゃ、私の家は?」 はるかはその発言を受けて、思いがけずドキッとした。なぜそんなにドキッとするのかはわからなかったが、心拍数が一気に跳ね上がったのは確かだった。動揺を悟られないように、努めてポーカーフェイスになって、返答を返す。 「家って…。みちるの家の場合、執事さんとか使用人の人とか、たくさんいるだろ? それに毎週毎週お邪魔するわけにもいかないし。」 “No.”という理由としては、それだけではまだ弱い気がしたが、とにかく反論することが大事だとはるかは思った。 「違うわ、実家のほうじゃなくて…。コンドミニアムのほう。あそこなら、誰も立ち入らないわ。」 それを聞いてはるかは、心拍数がまた上がった気がした。みちるが自分と同様、通学のために家を別に持っていることは知っていた。天王洲コンドミニアムタワーと同時期に建てられた、海王洲コンドミニアムタワーの一室。どちらもちょうど無限洲を取り囲むように建っているので、学校に通うのには都合良かった。はるかの場合は既にそこに住まいを移していたが、みちるの場合は、時々しか利用していないらしかった。たとえば学校が長引いて実家まで戻る時間がないときや、絵の制作のために一人になりたいときに、そのコンドミニアムを利用していた。そこを、週末のデータ整理の場所に使いましょうと言う。…幾ら時々しか使っていない場所とはいえ、みちるの部屋であることには変わりない。そんなプライベートな場所を、“仕事”のために使わせてもらってもいいのだろうか。いや、ダメだ。そんなプライベートな場所を使わなくたって、探せばきっともっと良い場所が見つかるはず。今日は何だか屁理屈ばっかりこねている気もするが、今はとにかく、反論することが大事だと思った。口についた言葉は、やはり逆接の接続詞。 「でもさ…。」 また自分の提案をポシャリそうになっているはるかを、みちるは新たな提案で遮った。 「じゃあ、はるかの家は?」 言われて、はるかは一瞬脚が軽くなったような錯覚に陥った。肩には、急に力が入った。…レースでも緊張することは稀なのに、この状況は、何だ。とりあえず自分の家にみちるがいる姿が想像出来なかったため、消極的な反応を示す。 「僕の家?! …。えー。」 「じゃあ、私のほうのコンドミニアムを使うしかないじゃない。」 「…。」 横を向いて覗いたみちるの顔は、照れと微笑で微妙に赤く染まっていた。…もしかしたら、今の自分も赤いのかも知れない。いや、そんなはずはない。とにかく、みちるの尤もな提案の前では、これ以上の反論は難しい。また、今日の自分は全然冷静ではなく、かなり迷惑をかけていることを認めざるを得ない所まできていた。はるかは反論を返さなかった。 「決まりね。今週は休みだけど、来週からそうしましょう。」 「わかったけど…。」 また逆接で口篭もるはるかに、みちるは内心大いに苦笑した。やっぱり素直な人ね、と改めてはるかを見つめ直す。はるかは口篭もったまま、何だか腑に落ちないような顔をして、見つめてきたみちるから目を逸らした。みちるは顔でも苦笑いして、悪戯っぽい発言をした。 「襲ってもいいわよ。」 はるかはほんの一瞬だけ、動揺が見てとれる表情をした。しかしすぐに、呆れ果ててこちらを馬鹿にしたような表情に変わって、真面目な返答をみちるに返してきた。 「は? …“仕事”のデータ整理場所に使うだけだろ?」 そんなはるかの様子を見て、みちるはまた苦笑した。今日会った当初よりだいぶ話しやすくなったはるかに、ようやく私的な質問をする気になった。 「そういえば、体はもう大丈夫なの? 一昨日、保健室で寝てたでしょ?」 「…。ああ、うん…。」 はるかは曖昧な返事を返して、また少しの間口篭もった。まさか、みちるの異性問題が気になり過ぎて、食欲や睡眠に支障が出て体調を崩していた等とは、口が裂けても言えない。倒れた本当の理由の説明をしたくないんだから、何か別の言葉が必要だ。はるかはその“別の言葉”を一生懸命に考え始めた。 エレベーターはもうすぐだ。みちるははるかから、何か言いたそうな雰囲気を感じたため、自分も黙ったままにしておいた。しばらくすると、はるかはさっきより少し高い声で話し始めた。声は努めて平静を装っていたが、若干の緊張が見受けられた。 「何か、告白されてたみたいだけど。…“Yes.”って言ったの?」 思いがけない質問に、みちるは一瞬歩みを止めそうになった。 「え…。聞いてたの? というか、起きてたの?」 その質問に対するはるかからの返答はなかった。この場合の沈黙は“Yes.”ということ。はるかは何でもないような顔をして、エレベーターの「△」ボタンを押している。けれどその行動の端々には、不自然な荒さが見受けられた。また、みちるに対して質問しているのに、みちるのほうを見ようともしていない。むしろ、見ないで言葉だけ聞こうと、そっぽを向いているようにも思えた。…普通の女の子なら、そういう恋愛関係の質問をすると、興味津々な顔つきでこちらを覗き込んできて、返答を迫ること明白なのだが。少なくとも、エルザはそうだった。 もちろんはるかのそんな細かい部分に気づくのは、みちるだからだった。いつもはるかを見てきたから。言葉にされなくても、はるかの状態がわかった。野生動物のような人ね、といつか思ったこともあった。野生動物は、自分が病気や怪我をしても、外敵に悟られないようにそのことを巧妙に隠す。なぜならば、自分が怪我していることがバレてしまったら、即座に狩りの標的にされるから。だからこそ必死で強がって、弱点を見せないようにして生活する。でもよく観察すると、何気ない仕草や行動から、弱っている部分は発見できるもの。はるかもそう。いつでも独りだと思い込んで、決して弱みを見せようとしない人だった。 エレベーターの扉が開き、先にはるかが乗り込んで行った。みちるもすぐその後を追った。意外な事態の発生に、思考をフル始動させ始める。もともとはるかは、使命もみちるの存在も疎ましく思っていた人だった。だから今もきっとそうなのだろうと思っていた。でもそれならなぜ、自分が告白されたことや、その返事を気にしているのだろう。他の女子とは違って、興味本位でそういうことを聞いてくる人ではないはずだが…。たとえその場に居合わせたとしても、『僕には関係ない』と、過剰な関わりを嫌って黙する人のはず。じゃあ、なぜ…。別のデータとして、みちるははるかが最近ずっと不機嫌であったことを思い出した。最近というのは、無限学園に転校してきてから後のこと。バラバラになっているパズルのピースを、頭の中で少しずつ組み合わせていく。はるかはエレベーター左隅の操作パネル前に立って、40階のボタンを押した。そしてドアが自動的に閉まるまで待てなかったらしく、「閉」ボタンを素早く押した。 返事をするか否かは、みちるの自由だった。みちるはあえて、はるかの質問に正直に答えた。 「言ってないわ。…“No.”と答えたわ。」 エレベーターの中の密室状態が幸いしたらしく、はるかは素直な反応を見せてくれた。答えを聞いたはるかは“そう…”とだけ言って、軽く腕組みをした。腕組みした状態で、何でもない振りをしてエレベーターの内壁に持たれかかる。“わかりやすい人ね…”とみちるは思い、今日何度目かの苦笑いをした。その間にもみちるの頭の中では、最近のはるかに関する論理パズルのピースが組み合され続けていた。まもなくして出来あがったパズルには、みちるの予想すら越える斬新なスタイルの絵画が使われていた。そしてその絵画は、みちるをこれまでで一番満足させる内容だった。 気づいてしまえば、何てことないのかも知れない。ただ、まだその絵画は、頭の中のものでしかない。…確かめたい。みちるは意を決して、隣に立つはるかの肩にそっともたれ掛かった。もちろんそんなことをしたのは、そのときが初めてだった。はるかは然して嫌がる素振りも見せず、いきなり肩にのってきたみちるの頭をそのままにしていた。みちるははるかの反応を確かめながら、気持ちを極力抑えて、口を開いた。 「“Yes.”って言うわけないじゃない…。自信持ってよ。」 はるかはみちるにもたれ掛かられたまま、わざとぶっきらぼうに応答した。 「何で僕が自信を持つんだよ。みちるが告白されてただけなのに。…、…。」 みちるは思わず、くすっと笑った。言ってしまった後で、自分の発言内容の意味に気づくはるかが、可笑しかった。そして不機嫌さを装っているけれど、まんざらでもなさそうな反応が、嬉しかった。“はいはい”と、聞き分けのない子供をあやすように返答する。そういうみちるを横にしても、はるかはそれ以上反論を返さなかった。代わりに、身じろぎもせずに立っていた。みちるは頬に、カッターシャツ越しにはるかの体温を感じていた。その温かさは、徐々にみちるの頬をほの赤く染め始めていた。そのことにみちる自身、気づいていた。 エレベーターは、もうすぐ目的地の40階連絡通路前に到達しようとしている。みちるははるかの肩から頭を離した。 「今日は、3号館の考古学展示室を調べるのよね。クラスで歴史学を専門にしている人から聞いたんだけど、学芸員資格を持たない一般生徒のIDカードで入室できるのは、6時までだそうよ。急ぎましょう。」 そう言うと、開いたエレベータの向こうに、みちるは先に出ていった。はるかは相変わらず愛想無さそうな顔をしていたが、みちるの背中を見送りながら、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。そして自分もエレベーターの内壁から体を離して、扉の向こうへと歩み出していった。 Fin. |
![]() ※上記画像をクリックすると原寸大で表示されます。 Picture:有咲様 Special Thanks:有咲様/M.H. |
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