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Body & Soul
初稿掲載日:2003年3月27日 / 最終修正日:2008年9月23日 / 作者:daydreamer
「天王さん。」
また来た。彼女だ、海王みちる。少し離れた学校に通っているはずなのに、毎日のようにはるかの在籍する学校まで出向いてくる。
「ご機嫌いかか? 今日は、これから空いてるかしら?」
「ああ…。…一応ね。」
「そう、じゃ良かった。それなら近くの喫茶店に寄って、作戦会議でもしない?」
はるかは一瞬顔が強張ってしまったものの、平静を取り繕って言葉を返す。"作戦会議"という言葉がヤケに耳についた。
「…構わないけど。」

 入った喫茶店でサントスを注文し、何となく腕組みして視線を窓外に保つ。窓際のテーブルを選んだのは、これから始まる海王みちるとの会話を、少しでも気を紛らながら進めようという思惑からだった。彼女の顔を毎日見るようになったとはいえ、以前と違って柔らかな笑みを湛えるようになったその顔には、何故か一向に慣れることが出来ないでいる。サーキット裏倉庫での一件があって以来、海王みちるはずっとこの調子だ。はるかの前では時折無垢な笑顔を見せ、本音で物事を語るようになっている。演奏会やTVインタビューなどで見せる、早熟な天才少女が身につけた人形のような笑顔ではない。クラシックも幾らか聞くはるかにとって、未来のトップソリストとして世界的に注目を集める海王みちるは、否応なしに目と耳に入ってくる存在だった。その、海王みちる。鈍感なはるかにさえ、“懐かれている”とはっきりとわかる豊かな表情変化を見せていた。

 はるかにとっては、そのことは大きな頭痛の種となっていた。共に使命を負った存在だから、自分に対しては何でも話せるということなのだろうか。自分は海王みちるが思っているほど、信用に足る人間でも素直な人間でもない。一方のみちるに対しても、まだ全信頼を寄せていいのかわからない状態なのだ。お互いに、まだ得体が知れない部分が多い。あっちは自分のことをよく知っているらしいが、こっちは最近知り始めたばかりなのだ。…何故そんなに警戒しない?何故そんなに僕を信用する?知っているからといって、使命を負ったパートナーだからといって、何でも話し合える存在になれるとは限らないはず。

 一方のみちるはダージリンを注文した様子。ウエイターが下がった後はるかは、向かいのみちるにすぐ今日の本題をぶつけ始める。早くこの場を終わりにしてしまいたい。
「それで…次のターゲットの目星はついたの?」
窓際に並べてある骨董品にしばし目を奪われていたらしい海王みちるは、我に返ったような顔をして一つ頷いた。
「…おおよそでだけれども。私が一人で戦ってた頃まで含めると、今まで遭ったダイモーンの九割近くが、無限学園の関係者に憑依していたことになるわ。それから考えると…。“無限学園には、ダイモーンに関係する根本的要素がある”という推測が出来ると思うの。」

 店入り口のドアベルが鳴り、大学生風のアベックが店内に入ってくる。先ほどのウエイターは、他のテーブルの注文にも呼ばれたらしく、まだ忙しく立ち回っている様子。はるかは幾分苛立ちを覚えつつも、目の前の人間の主張に耳を傾けていた。みちるの言っていることには一理あった。サーキット裏で自分が狙われたときも、無限学園の男子生徒がダイモーンに憑りつかれていた。それ以後に自分達二人が遭遇したダイモーンや、みちるが一人で戦っていた頃に出会ったらしいダイモーン達も、無限学園の関係者がほとんど犠牲者となっていた。みちるに対して沸き起こる妙な感情をひとまず置いて、戦士として冷静にデータ分析を始めようとする自分がいた。
「たしかに、言う通りかも知れない。でもどうやってターゲットを絞り込むわけ?たしか、あそこは…。最近出来た、小学校から大学院まで完備してる私立校だろ? 適当に抽出して一人をマークするにしても…ちょっと母集団が大き過ぎる気がするけど…。」
そうねと、みちるは一つ頷く。少しの間があった後、今度は感情のよく読めない微笑を湛えて、彼女はある打開策を提示してきた。
「“潜入する”というのは、どうかしら?」
平凡な回答に、少し鼻で笑って応答する。
「潜入…。良い案だとは思うけれど、その前にかなり下調べして潜入しないと、大幅なタイムロスを食らう可能性がある。学校と…ま、お互いの課外活動の空き時間で、僕達はタリスマン探しを続けているわけだし。」
みちるは少し苦笑いしてはるかを見つめた。薄浅葱うすあさぎの瞳は、何か悪戯っぽく揺れている。
「違うの。」
「…?」
はるかは疑問符を貼り付けたような顔をして、みちるの次の言葉を待った。と、みちるは視線を少し逸らしたと思うと、柔らかく笑って椅子に座り直した。程なく、はるかの後ろ手からウエイターが二人のテーブルに近づいて来る足音が聞こえてきた。
ウエイターが下がってダージリンを一口飲んだ後、再びみちるが口を開いた。

「“潜入”と言った意味はね…。無限学園の内部から、ターゲットを直接絞り込んではどうかということ。つまり私達二人が無限学園に編入学するの。おとり捜査のような感じ、とでも言えばいいのかしら…。」
それを聞いてはるかは、熱いサントスを十分に飲み干せないままサーバーに戻した。思いがけず大胆な提案。言いたいことはわかるが、それは危険な賭けとしか思えない。とくに“二人一緒に編入学する”というのは、リスクが大きい。学園内にそれだけ多くのダイモーンの憑依対象がいるとすれば、あそこはダイモーンの巣屈とも考えられる。だから万一どちらかが学園内部で死傷した場合、外部への救援要請や情報伝達、たとえば病院や警察への連絡が不能になる。データとデータ分析者の両方がなくなってしまえば、自分達が今やっていることは全て無駄になる。カップから手を離して再び腕を組む。先ほど入店してきたアベック達は、店奥の仕切り戸のあるテーブルに落ち着いた様子。
「“二人一緒に”っていうのは、どうかな、と思う。君一人が行けばいい。僕は学園の外で、君が送ってくる情報を随時分析していくから。」
「怖いの?」
「ちが…。じゃあ僕が行ってもいい。君は外に残って、僕が送ってくるデータの分析と蓄積を担当してくれ。……。だって二人とも囮になったら、万が一のときどうしようもなくなるだろ?」
みちるはダージリンの二口目をゆっくりと飲み終わった後、また静かに口を開いた。どこかしら、祈るような口調で、穏やかに。
「二人がいいの。」
「…何で?その必要はない、と思うけど。」
はるかにはその主張の真意が掴めない。みちるは伏目がちになって、それきり反論を返さなくなってしまった。しばらくはお互いに無言になって、それぞれの飲み物を飲んだり、カップに手をかけたりして沈黙を取り繕っていた。はるかはブラックのサントスを落ち着きなく口に運びながら、突如訪れた沈黙の原因を分析し始めた。
 
 いつもは冷静に英断を下す海王みちるが、何故こんなに根拠ない主張をするのだろう。任務遂行は、常に死と隣り合わせ。頼れる者は、自分とパートナーの二人しかいない。二人とも死んだら終わりだ。…彼女が僕に、何か特別に強い友情のようなものを抱いているのはわかっている。別にそれはそれで構わない。けれどその感情は…。今後、任務遂行の障害になる可能性がある。感情に左右されて冷静な判断が下せなくなってしまっては、この先どんな不慮の事態を招くかわからない。
 しかしそれ以前に、何か拒絶感のようなものが、俄かに現実味を帯びてはるかの心を支配し始めていた。拭いようのない、嫌悪感。目の前にいる彼女の警戒心のない笑顔が、馴れ馴れしいスキンシップが、ちょっとした余分な気遣いが、己の中に何とも言えない嫌悪感を生み出してしまっていた。その感情は、みちるに初めて会った当初から心の中に巣食っていた。会う度にだんだん大きくなっていくのだけれど、必死に抑えて今までタリスマン探しを頑張ってきた。けれども、もう限界だ。周囲を少し気にしながらも、意を決して口を開く。

「…。あのさ。」
ぐずついた気持ちで、思わず乱暴に置いてしまいそうになるコーヒーカップ。意識的に、静かにサーバーの上に置く。
「?」
みちるは顔を上げて、柔らかい眼差しではるかを見た。はるかの様子を見て、カップを口に運ぶ手をふと止めた。
「言っておきたいことがあるんだけど。」
「どうぞ。」
はるかは心の中で一つ深呼吸をする。それからテーブル周囲の人間に聞こえぬよう、けれども至近距離のみちるにははっきりと聞こえるような声量で、一言切り出した。

「…僕は、女なんだぜ。」
一瞬だけ、お互いの時が止まった気がした。みちるは、手元で止めていたカップを再び口に運び、落ち着き払った声で応答した。
「それが何か?」
何かって。わかってないんだろうか、この人は。
はるかの中に、さらに強い苛立ちが渦巻き始めた。言葉が、より核心を突いて口から飛び出し始める。

「…。女が女を好きになるってのは、僕には理解できないことだね。そういうの、はっきり言って気持ち悪い。」
言ってしまってすぐに、後味の悪さを感じた。それまではほとんど聞こえていなかった店内BGMが、妙に耳について聞こえ始める。
 Body&Soul。好きなスタンダードナンバーのはずなのに、今はただの嫌味にしか聞こえない。…今のところ、みちるははるかのことを好きだとまでは言っていない。だからこの発言の根拠は、はるかの推測にしかない。違う、と一言言われればそれまで。はるか自身も、自分の発言内容が可笑しいことはわかっていた。でも表現をぼかしたまま発言しても、みちるは上手くはぐらかした返答をしてくる恐れがある。

 みちるは然して動じていない様子。口元にまだわずかに笑みを残したまま、頷くように口を開く。そして思いも寄らぬ反論を返す。
「…そう。じゃ、どうしてあなたは、男子学生服なんか着てらっしゃるの?」
はるかは少し顔を強張らせて、しかし強い眼光のまま、質問への回答をすぐ返す。
「このほうが楽だからさ。それとこれとは全然関係ない。」
 アイデンティティを保つため、と言ったほうがより正確だったかも知れない。女子学生服を着れないことはないが、何となく、自分にとっては女装しているように感じられて落ち着かなかったから。入学当初、生徒手帳の校則を何度も見直しても“女子は女子学生服を着用のこと”という記載は見つけ切れなかった。だから思いきって学校の生徒指導担当に相談したところ、「たしかに君が言う通り、ウチの学校の制服には別に男女の指定はない。」という返答をもらった。たまたまだった。他の学校でも同じような返答がもらえるとは限らない。…だがそんな細かい経緯まで、今彼女に説明する必要はない。第一、服装と性的指向は別問題のはず。それに、いきり立ってしまっている状態では、上手くその区別を説明出来そうにもない。

 とりあえず、使命と私情を切り離すこと。その意思だけは、明確に伝えておく必要性をはるかは感じていた。熱された頭では、どうしても尖った言葉しか思い付かない。そのまま音声として口に上らせてしまう。

「今後は『使命』に関わること以外では、僕に関わらないでくれる?」
みちるはわずかな時間、細身の体を硬直させて完全に沈黙した。そして引き攣ったような笑顔を見せたかと思うと、俯き加減に一つ頷く。薄浅葱うすあさぎの瞳の今の色は、伺い知ることが出来ない状態になってしまっている。カップのダージリンはまだ四分の一近く残っていて、その中で店照明を頼りなく揺らしていた。

「わかったわ。」

 言うことを全部言ってしまったはるかは、ただただ気まずかった。目の前には、俯いて元気のなくなったみちる。原因は自分。幾分温くなったサントスを無理矢理喉に流し込んで、先ほどの編入学の話にまた立ち戻ろうとする。けれどもやはりその程度では、この場の雰囲気の悪さを払拭する効用は得られなかった。椅子を立ち、テーブル隅で裏返しにされている勘定を掴み取る。はるかはみちるを置いて、そのまま喫茶店を後にした。



 夕刻。喫茶店を飛び出してきたものの、はるかの頭はまだ混乱したままであった。恐らくは言ってはいけなかったことを言ってしまったことへの後悔。まだ考えたくないけれども、その発言で海王みちるを確実に深く傷つけてしまったことへの後悔。どちらも重くはるかの心にのしかかる。けれどもこのまま胸の中で抑え込んで、みちるに何も言わず冷たく当たり続けることには大きな躊躇いがあったのだ。そういう恋愛があることは知識として知っている。でも何故いつも自分がその対象になってしまうのか。ジュニアレーサーとしての自分を取り巻く女性フリーク達もそうだ。…馬鹿らしい。自分は紛れもなく女なのだ。その堂堂巡りの思考は、“女らしさに縛られまい”とすればするほど、はるかを公私共により強く苦しめ続けてきていた。

 とりあえずいきつけのバイク屋に転がり込むことに。オヤジさんに少し話しかけられて、いつもより余分に色んなことを話している自分に気づく。すぐ手持ち無沙汰になり、倉庫で眠っているレース用の愛機を思い出す。ツナギに着替え、工場まで引っ張り出して来て、マシンのメンテナンスを始める。すぐ終わり、次の仕事を探す。車検で来てる別のバイクのチェックを頼まれ、すぐ承諾する。何故だかわからないが、とても落ち着かなかった。
 1時間もしないうちに、オヤジさんがまた話しかけてきた。見ると、工場隅のテーブルに着席して、コーヒーとお茶菓子で休憩を取り始めたところらしかった。はるかの分も用意してある。水洗いの潤いを少し残したオヤジさんの手爪には、洗っても洗っても落ちない黒い油汚れが詰まったままだった。はるかは見るともなくそれを確認したあと、自分の作業に戻ろうとした。

「今日は何かあったのかい、はるかちゃん。」
「え?」
「いや、もうレース前なのに、けっこう早い時間から店に来てくれただろ?車検のやつも手伝ってくれたし。それに自分のバイクもさ、キャブレターの掃除なんかしてたから。そんだけやりゃあ、新車に負けないくらいピカピカだろー。」
思わず手元を確認する。
「あ…。すいません。」
「いや全然謝ることじゃないけどよ。何か気になることでもあったのかい?」
ジャストフィットで指摘されたことで、はるかの心に大きな動揺が生じてしまう。オヤジさんにもわかるくらい、今の自分はいつもと違う状態なのだろうか。やっている本人なので、自分自身ではその状態がわからない。
「いや…。特に何もないんですけど。…他、何かすることないスか?」
オヤジさんはそれ以上は追及してこなかった。とりあえず休憩しようやと、テーブルのコーヒーをはるかに勧める。はるかは少しホッとして手を止め、テーブルに歩み寄った。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 その夜みちるは、枯れるほど泣いた。給仕を下げて食事も摂らず、広い自室に篭ってひたすら泣き続けた。女性であるはるかに想いを拒まれたことは、当然と言えば至極当然のことであった。けれどもヴァイオリニストになる夢を犠牲にしても覚醒する決意を固めた理由は、他ならぬはるかと共に生きたかったからだった。それ以外に何を期待しているわけでもなかった。ただ、彼女の傍にいることが出来ればそれで良かった。
 ただそれは、友情というレベルの要求ではない感情。それは自分でも承知していた。その感情に常に戸惑っていたし、理性とプライドをもって自嘲してきたことでもあった。恋という言葉で片付けてしまうのは簡単であるけれど、そう言い切ってしまえるような自信はなかった。『憧れが友情に加味された思春期特有の一時的な高揚』と言ってしまえなくもない。そうなのかも知れない。そうでないのかも知れない。自分でもよくわからない。けれども、やはり抑えることの出来ない、彼女に対して紛れもなく存在する感情。みちる自身、まだ非常に混乱して心の整理がついていない状態だった。だから表面上は幾らか取り繕えたとしても、核心を突かれると、もうダメだった。考えたくないけれど、考えなければならない自分自身の難題だったから。
 深夜。執事から連絡を受けたみちるの父が、心配して出張先から国際電話を掛けてきた。「学校で嫌なことがあって少し感情的になってしまったけれど、もう大丈夫」と弁解。言葉が浮かないように気をつけながら、受話器の向こうの父を安心させる。たまにしか会わない親子だから、こんな芝居でも十分にごまかせる気がした。
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 みちるとはるかの放課後の作戦会議が休止されて以来、既に2週間が経過してしまっていた。タリスマンを探す時間が無制限でないことを考えると、そうのんびりと作戦休止をしているわけにもいかない。けれども、はるかは自分からみちるに連絡を入れる気にはどうしてもなれなかった。『私情と使命は切り離して考えろ』と主張したのは他ならぬ自分自身。だが一度お互いの感情を露にしてしまった状況では、公の理由でも会うことは憚られた。以前のように冷静に話し合える気が全くしない。一人鬱々とした感情のまま、放課後の駐輪場へと急ぐ。そろそろの次の出場レースの調整にも入らなければいけない。ジムのトレーニングメニューも増やさないと…。いつも通り忙しさに身を任せて、現実の問題から逃げようと模索し始める。

 夕闇の中ふと、自分の単車を停めている傍に人が一人立っているのを認める。見間違えるはずもない唯一の容姿。そこには、会わなければならぬが会いたくない人が立っていた。後ろを向いて待っている彼女には、自分の存在がまだ気づかれていない様子。何と声を掛けていいのかわからず、とりあえず近くまで近寄る。至近距離7mに近づいたところで、みちるはようやくはるかの存在に気づいた。少し笑って向き直り、背の高いはるかを見上げた。はるかはみちるの顔を正視出来ないまま、ただ突っ立ってしまう。嫌悪感と罪悪感で一気に混濁していく己が心を、理性でどうにか御そうと咄嗟に試みる。みちるははるかの様子を見て、申し訳なさそうな顔をして淋しく笑った。

「ごめんなさい、また現れて。今日は、ちょっと渡すものがあって来たの。」
明るいけども、少し空元気な声。2週間前のことは、やはり相当堪えているらしかった。ちらと相手の姿を盗み見る。みちるは幾分痩せて、血色悪い風にも見える容姿をしている。…泣いたのだろうか。推測をそれ以上進める余地もなく、みちるは持参した小さな紙袋から何かを取り出し始めた。中から出てきたのは、スポーツタイプの腕時計らしきもの。でも普通の腕時計に較べると、時計盤の部分が蓋式で色とデザインが派手気味だった。みちるは淡々とその道具の使い方を説明し始める。
 
「通信機よ。これがあれば、いちいち落ち合わなくても連絡がとれるわ。」
詳細な使用方法が記された説明書を同封してあることを告げ、通信機を再び紙袋の中にしまいこむ。袋をはるかに手渡し、それ以上の会話を避けるかのように、みちるは自分の帰路に視線を向けた。

「じゃ、また。」
音もなくはるかとすれ違っていく。何となくセッケンの匂いのする香水の移り香が、みちるの通った道筋の後には残っていった。はるかは迷っていた。今謝罪するべきか否かを。ここまで余所余所しく自分に対する態度を変えたみちると、これから上手く使命を遂行していけるのだろうか。そういう態度に変えさせる原因を作ったのは、他ならぬ自分自身。
「………、海王さん。」
「?」
迷いつつも思いきって掛けたはるかの声が、足早にこの場を立ち去ろうとするみちるを止めた。はるか自身、そのときその行動を取る予定はなかった。でも今この場を逃すと、みちるとのコミュニケーションに一生支障が残る気がしてならなかった。ただ謝りたかった。率直な気持だったとはいえ、相手にとっては暴言にしか聞こえない自己の発言に対して。
「この前は………………ごめん。」
「…。」
「ひどいこと言った。」
「…ああ、いいのよ。気にしないで、あれはお忘れになって。こちらこそ、色々と気持ち悪い思いをさせてごめんなさい。」
 それを聞いてはるかは、頭を一つ左右に軽く振る。久しぶりに正視したみちるの顔は、やはり幾分やつれ、泣き腫らしたような眼球の赤みが残っていた。はるかにとっては何も魅力を感じない顔とはいえ、やはりそれなりに罪悪感を感じさせる痛々しさを放っている。もちろん他から見れば、海王みちるは才色兼備な魅力溢れる女性なのだろう。でもはるか自身にとっては、海王みちるはまだワークパートナーとしての存在でしかない。それ以上の感情は、やはり今は生じない。他の女性に対しても同様だ。ただ今はそれ以前の問題で…彼女にきちんと謝っておきたかった。ごちゃごちゃ考えていると、また予定外の言葉がはるかの口から出てしまう。その言葉に、はるか自身戸惑いはするものの、今の自分に一つだけ出来る償いだと確信していた。

「今日は、これから帰るだけ?」
「ええ。自宅でヴァイオリンのレッスンがあるから。」
みちるは質問の意図を探っている風もなく、素直に返答を返してきた。はるかはというと、何となくモジモジしながら次言う言葉を考えていた。バイクに備え付けている予備ヘルメットを確認する。
「家…海王洲のほうだったよね。」
「…ええそうよ。」
「……。近くまで、送っていこうか?」
言われて一瞬、みちるははるかの目を盗み見る。今まで言われたことのない言葉。私的なことではるかが率先して何かをしようと誘ってきたことはチームを組んでこの1ヶ月、まだ起こっていないことだったから。2週間前のことについて、かなり気を遣っての申し出なのだろう。1ヶ月前にサーキット裏で右腕を怪我したときもそれなりに気を遣ってくれてはいたが、怪我を気遣うだけでプライベートなことまでは言及してこなかった。まもなくして、みちるは苦笑いを見せる。
「いいわよ、気を使わないで。天王さんもこれから用事がおありでしょう?」
「いや、今日はとくに何もない。…強いて言えば、ガソリン入れと…弁当買いに行くくらいで…。」
 落ち着かなく腰に両手をやってしまうはるかを見て、みちるは思わず垢抜けない笑みをこぼしてしまった。駐輪場脇の街燈が、ふっと灯る。お互いの間に漂っていた緊張感のようなものが、少し和らいだのをはるかは感じた。はるかも少し笑う。

「……そう。じゃ、お願いできる?」
 頷き、手持ちの二つのヘルメットを少しの間だけ見比べる。備え付けの古いほうを渡すか、自分が被っている新しいほうを渡すか。どちらもまだ買って一年も経っていないことを思い出し、備え付けの赤いヘルメットのほうを貸し出すことを決めた。
 少し笑って現物を渡すと、みちるはその重みを楽しむように両手でヘルメットを抱えた。先にヘルメットをかぶったはるかは、狭い駐輪スペースから愛機を引き出し始める。道伝いまで持ってきたところで一度サイドスタンドを出して、通学用に申し訳程度に付けてきた大き目のタンクバッグにみちるの鞄を無理矢理押し込む。シートにまたがって程なくかけたエンジン回転音が、いつもより少し弾んだ感じで聞こえた。

 ふと横から、視線。ヘルメットをまだ被っていないみちるの姿がある。被り方がわからないらしかった。両サイドの顎紐を外側に引っ張って、ヘルメットの後頭部から被るような感じで頭を入れればいい。そう言うと、みちるは上手く頭を下げてヘルメットを被った。中国製のフリーサイズ、2980円の安物。知り合いのバイクショップからもらった売れ残りの一品だったが、今日は十分に用を成してくれているように見えた。

―――でも、今度乗せるときは…

 ちゃんと頭に合うサイズでもっと上等なやつを、買って備え付けとかないとだな。頭のどこかで、そんなことを考える自分がいた。エンジンをかけて再び彼女のほうを見ると、みちるはこちらを見て次の指示を待っていた。
 少し振り向き加減になって、「どうぞ」と言葉で促す。みちるは少しだけ躊躇いながらも、路面からバイクへと上手く身を運び、黒いタンデムシートにまたがった。ちょこんっと後ろに座ったままのみちるに、はるかは次なる指示を出した。

「発進するときに結構揺れるから、リュックか…。怖かったら、僕の肩か腰に掴まって。」
 背の高いはるかの肩は、みちるが安心して掴まれそうなそうな場所より幾分高かった。バックパックを掴むのは、尚のこと不安定に感じられた。
 みちるはやっぱり少し躊躇しながらも、思い切ってはるかの腰に手を回した。はるかは腰周りの緩い締め付けを受けて、両肩にわずかに力みを感じた。

 心の整理が何もかもついたわけではない。けれども、こうやって動き出すことで、少しずつこの問題について考えていこう。逃げても恐らく、それは問題の先送りにしかならない。そう考え始めた今は、バイク屋やスポームジムに逃げるように放課後直行する気もだいぶ失せてきていた。彼女は結局逃げずに、また僕の前に現れた。だとすれば、僕もいつまでも逃げてばかりいるわけにはいかない。

気を取り直し、ローに入れる。
「じゃ、しっかり掴まってて。」
二人を乗せたバイクは、さらなる加速を求めて夕刻の街の中に消えていった。


Fin.
Photo
Photo:daydreamer
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※この作品は、フィクションです。作品中に登場する名称や出来事は、実在の人物や出来事と一切関係ありません。