BALANCE
初稿掲載日:2001年8月1日 / 最終修正日:2003年4月26日(未完成) / 作者:daydreamer
| 轟音の鳴り響くサーキット。いつ臨んでも心地良い興奮を感じる。 ピットの奥で長いこと控えていたはるかは、チーフアシスタントの合図で腕組みを解いた。スタートの少し前。傍の折りたたみ椅子から立ち上がり、心配そうにこちらを見つめるみちる。四角いパドックパスが首から揺れる。その姿が、ふと目に留まった。既に好戦的になっている思考回路が、僅かの間だけクールダウンする。 立ち上がった肩を片手で包んで、一言言い置く。 「…トップで戻ってくるから。」 固い表情が、精一杯の笑顔に変わる。はるかは少し目を細めて、みちるの肩から手を離した。ライディングスーツのファスナーを上まで全部閉めて、テーブルの上のヘルメットを手にとる。昔と同じ、儀式のような準備動作。緊張感は、やはり何も感じない。思考過程を、徐々に元の好戦的なモードに戻していく。 ピットを出て愛機に手をかける。割り当てられたマシンは、チームが開発した今期の最新型。復帰直後の自分にそれが回ってくるのは、それだけの期待をかけられているということ。「帰って来た」という実感が、全身に込み上げる。 スターティンググリッド。アクセルを回し、ふかしたエンジンの振動に心を踊らす。久しぶりのセミ耐久、200km35周。後のシリーズを占う大事な前哨戦だ。風を感じてどこまでも、思う存分に走りたかった。 予選を一位通過していたはるかは、ポール・ポジションからのスタート。前半のうちに出来るだけ差をつけておきたい。スタミナにまだ不安があった。レースに復帰してまだ日の浅い自分には、後半で他車と競り合うだけのパワーがまだ戻っていない。飛ばす。最初から、独走態勢に入る。そのためにもスタートを成功させて、良い走行位置をキープしないと。そしてコーナリングで確実に抜かしていく。安定したら直線で距離を稼ぐ。 頭の中からは、既にみちるのことは消えていた。 シグナルが、赤から青に変わる。ロケットスタート。蜂のようにうごめくバイク集団。誰もが一番前に踊り出ようと競り合う。幸い、他車との接触はなかった。まもなく入った1st、2ndコーナーで、並走車に競り勝ってトップ奪取。上がり勾配で少々ヘビーなダンロップコーナーは、後ろの引き離しにかかりながら通過。追い上げる輩をコーナーリングで確実にかわす。その他の各ポイントも、丁寧に、しかし的確な速度を作って回っていく。3速にシフトアップして入ったS字コーナーでは、体が勝手にリズムをとっていた。順調、順調だ。 全周回の3分の1弱、15周を回った頃、後方のバイク群が少し遅れ始めた。ヘルメットの奥で、微かに笑みが洩れる。走り慣れたこのサーキットで、自分にかなう者などいない。はるかは5速にシフトアップして車体の加速に努めた。 打ち合わせ通り、20周目を回ったところでピットインした。タイヤがもうもたない。メカニックの協力の下、ピット作業は速やかに終了する。急く気持ちを抑えて再びコースへ。 30周目。風と一体になっているような感覚。あまりの爽快さに、レース中であることさえ忘れてしまいそうだ。曲率の高いスプーンコーナーも、シフトダウンしながら楽しく回っていく。後方のバイクの音はもうかなり後ろ。変わらず一番で入ったバックストレッチを豪快に走り抜ける。気がかりだったスタミナ切れもなく、マシンともども快調に走っていた。あと5周。 姿勢を低く保って、再びギアを上げようとしたその時。 前方に周回遅れのバイクが見えてきた。少しトリッキーな動きをしながら走行している。思いきりの悪いシフトチェンジ。コースの特性を生かしていない幼稚な走り。今日が初参加のやつだろうか。…無理せずピットに戻ればいいのに。 こちらのエンジンの音が、前方ライダーにも届く。俄かに、焦りの色。3速に上げて、僕に抜かれまいと、必死にインに入ろうとする。けれども追い越しポイントである130R手前に入ったとき。手早くアクセルを開けながら僕は少し笑った。 “無駄さ…、ここで抜く。” 車体を近づけ、アウトから抜き去るタイミングを推し量る。 しかし。 何を思ったか、目の前のバイクはアウトラインに飛び出して、がくんっといきなり失速する。 二車の距離がぐんと縮まる。 予期せぬスローダウンに我が目を疑う。 “!!! …ぶつかる!?” 加速し、近接したバイク同士では、激突を避けることは難しい。 はるかの車体は前方に突っ込んだ。 背筋に、冷たいものが走った。 鈍い接触音。体が放り出されそうになる。だが、意識が驚くほど鮮明だった。刹那の時間にスローモーションがかかっているのか。投げ出されそうになる体を車体に押さえつけて、乗車姿勢を低く保つ。 一度目の接触で、車体どうしが少し離れた。加速した二車体は、尚も近づこうとする。次にぶち当たるのが、本当のクラッシュだな…。機を逃さず、はるかは車体を横倒しにした。 ガガガッ、とアスファルトの地面が体をこすりつける。歯を食いしばるものの、熱さに似た痛みは拭えない。乗っていたバイクは体から離れ、ロードを激しく舐めて縁石を越えていく。自分自身も幾度か横転し、視界がめまぐるしく切り替わる。地面の上をヘルメットごと激しく転がっていく音。両耳にはそれだけしか届かなかった。咄嗟に、頭をかばう。 “くそっ…。” それ以上は、はるかの思考は進まなかった。制御を失った体が、防護体めがけて思い切りぶつかり、意識が飛んだ。 目覚めると、病室にいた。白くて何も無い壁、消毒液の匂い。全身打撲と骨折、たくさんのすり傷。意識がはっきりしてくるにしたがって、激痛も感じ始めた。 そうだった、僕は事故を起こしてしまったのだ。無念さと諦念を、次第に心に感じ始める。久々の参戦ではあったが、優勝が目前に控えていたレースだった。あのひよっこライダーさえいなければ。…、いや。これで良かったのだ。先に横転して激突を最小限にしたのだから。怪我だって、治ればまたレースに出られる。今回は、運が悪かっただけさ。 ぼんやりと考えていると、不意に近くに人の気配を感じた。ずっと握っていたらしい僕の右手を、その人の手は少し力を込めて握り返してきた。目線を少しだけ動かす。 “……、みちる。” 頬を泣き濡らして、何時間も付き添っていてくれたらしい。はるかの目覚めに気づいて、張り詰めた表情をようやく少し解く。 「…はるか! 意識が戻ったのね…。」 飛びつかんばかりの喜びと、心底の安堵の表情を見せる彼女。目覚めて最初に愛しい人を見ることが出来るのは嬉しいが…、泣いているのは自分のせい。 「…み…、っ…。」 上体に激痛。思うように声が出ない。痛みに気づいた後は、息を吸うだけでも辛い。あばらか、胸部のどこかを折っているのか。すかさずみちるが注意する。 「しゃべると体に障るわ。…肋骨を折ってるのよ。左腕と左の大腿骨もそうなんだけれど…。ICUから出てきて、まだそんなに時間も経っていないんだから…。」 それを聞いてはるかは、そんなにひどい怪我でなくて良かった、と思っていた。みちるが今挙げた骨折部は、適度なリハビリと休養で治る傷だったから。 “何だ、ヘルメットごと転がされて寝てただけだったんだ…。” どれくらい眠っていたのかはわからないが、彼女の服装はレースの応援に来ていたときのままだ。怪我に対する度の外れた見解を少しだけ反省する。 「もう起きないのかと思ったわ…。丸二日近く、あなたは眠っていたのよ。」 涙目の女神は努めて微笑みながらそう言う。僕は笑い返しながら、チクリと胸が痛むのを感じた。みちるの話によれば、あの後自分は意識不明の重体に陥り、一度心臓が止まってしまったのだという。ヘリコプターで病院に運ばれた後、奇跡的に蘇生し、意識を少しずつ取り戻していったらしい。幸い、頭部・頸部への損傷はなく、胸部もヒビや幾らかの骨折程度で済んでいた。咄嗟に頭をかばって転がったおかげか、脳波の異常も見られなかったらしい。 …自分自身がはっきりと意識を取り戻した自覚があるのは、たった今しがたのことなのだけれども。 部屋には、はるかとみちるの二人きりだ。医療スタッフが誰も傍に控えていないのだから…今みちるが教えてくれた以外の大きな怪我は負っていないのだろう。きっとこれから、病室内を慌ただしくを出入りし始めるのだろうけれど。備え付けの機能机から覗いていた白い紙束が目にとまった。ファンから届けられた見舞いのファックスとメールだという。「もう少し容態が落ち着いてから、ゆっくり読んで」と言われて頷く。 チーフは…。チームの皆は。いない。病室の外で寝てるのだろうか。僕の無茶に腹を立てているかもしれないな…。体もそうだけど、マシンを一つお釈迦にしてしまったから。苦笑いして謝ることしか出来ないけれども、会って安心させなければならない。同僚や四輪の友人達も、見舞いに駆けつけて来るのだろうか。あのときの判断が誤っていたとは思わないけれど、とんだ心配をかけてしまったな…。あのレース自体は、恐らく二番手の奴にもっていかてれしまったのだろう。悔しいが、必ずリベンジしてみせる。そういえば、ひよっこライダーは…。 大怪我を負っているのにも関わらず、何だか冷静に物事を考えてしまう。無茶し慣れているせいだろうか。 不意に視界が暗くなり、右手を握るみちるの力が強まった。ガーゼの上に、温かい感触。泣き濡れた温かい頬。小刻みに震える彼女の肩。洩れ出る嗚咽。重みを乗せられた右腕が少し張り、点滴針を留めるテープが肌の毛をピリリと引っ張る。独り善がりな思考が、現実味を帯びる。 …泣かせてしまったのは、もう何度目だろう。 「良かったわ…。もう、本当に起きないのかと…思ったのよ。」 喉から搾り出すような弱々しい苦声を、みちるは吐露した。レースを何度も間近で見ているとはいえ、はるかが大事故を起こすのを目撃したのは、みちるにとって今回が初めてだった。誰かが転倒するたびに、誰かのマシンがロードで大破する度に。“はるかだって、一歩間違えればこうなるかも知れない”とは予感させられていた。けれども倒れても、またすぐ立ち上がってレースに復帰する姿に。誰よりも速くをチェッカーを切る姿に。あまりにも見慣れてしまっていた。時速200キロを超える超速の世界。いつでも死と隣り合わせのスポーツ。けれども、誰だって、死にたくはない。死んでほしくもない。 はるかの喉奥には、熱いものが込み上げてきていた。 また、愛しい人に辛い思いをさせてしまった。無茶をする度に、夢を追う度に、みちるを泣かせてしまっている。けれど、“二輪の最高峰クラスまで上り詰めて、世界を制す”という夢を諦めることは出来ない。無心になって、風と戯れる瞬間を失いたくはない。風と戯れる瞬間…。その時にしか、生きている実感が持てないから。 右手のガーゼは尚も濡れ続ける。ここ数日の間懸命に抑えていた想いを、みちるは涙の粒に変える。はるかは痛みを堪えて、掴まれた右手を握り返した。 自分には夢とみちるを天秤にかけることなど出来ない。どちらも失いたくない。どちらも求め続けたい。けれども、それはきっと無理なことなのだろう。どちらかを求めるうちに、もう一方は疲弊し、消失していく。 「…………、…っ…。」 ごめんよ、みちる。 今のはるかには、心でそう呟くのが精一杯だった。 Fin. |
![]() Photo:daydreamer |
| [ページ先頭へ] [あとがき][現代編追加設定まとめ][小説目次ページに戻る][トップページに戻る] |