それは、アーティストとしての大きな賭けでもあった。ピアソラをカバーする音楽家は、今も昔も変わらず多い。しかし力及ばす批評家によって葬り去られる者が多いことも、また事実。…もちろん批評が怖くて身動きがとれないわけではなかった。問題は、ジャズチェロでバンドネオンをどこまでカバー出来るか。音的にはG線で共通項があるし、音域も同じく広い。またピアソラ自身も自分の楽団でチェロを伴奏楽器として多用している。けれど主パートを受け持つバンドネオンの旋律は非常に独特かつ難解で、同じバンドネオン奏者でも運指に苦しむ難曲揃い。たしかに、クラシック畑からのチェロでのアプローチは既に相当数ある。だがジャズチェロとなると、途端にその数は減る。ピアソラの音楽の奴隷とはならず、適度な距離をとって、音で独自のステップを踏める者。そういうアーティストは、本当に少ない。それは、あまりにも彼の音楽が強烈だから。熱情に絆されて、奏者は皆理性を失ってしまうのだ。それでもあえてピアソラに挑戦するジャズチェリストは、夏海で2人目くらいだろうか。
夏海はこのような無謀な挑戦において、僅かながら自分にも分があると考えていた。…ピアソラ自身も語っているように、彼の音楽は美しいサウンドを創りだすことを目的としていない。クラシックのように、作曲家の奴隷となることも必要としない。既存のサウンドにとらわれない様式で、生身の人間の情愛や悲哀、現実的な諸問題を、そして荒廃していく故郷ブエノスアイレスの夕暮れを、音で克明にスケッチすること。それが彼の音楽活動の目的なのだ。それは、夏海が常々目指している音楽世界に近いコンセプトだった。そういうものを、チェロの音を借りて自分なりに再スケッチ出来れば。
そういうことを考えているうちに、気づくとバルセロナに飛んでいた。
そのときのレコーディング・メンバーには、一風変わったキャリアを持つギタリストが含まれていた。若い頃は二輪レース参戦のためにイギリス留学、25歳を過ぎて自分の才能に見切りをつけた後は、それまでアルバイトでやっていたギターで本格的に生計を立てるようになったらしい。イベント参加やクラブセッションで場数を踏んでいるその演奏は、正規の音楽教育を受けていなくても、絶妙のバランス感覚とアドリブワークを備えていた。業界においては、サイドマンとしても定評がある人物だ。
ただ驚いたことに、スコアをほとんど見ずにいつもフィーリングで音を出していた人だった。一度楽譜に目を通した後は、暗譜した部分を頼りに頭の中で編曲作業に入ってしまう。よく言えば、生粋のジャズ奏者。悪く言えば、作曲家の魂といえる楽譜に従順ではない不良者。時々演奏が何となくフラットになることがあるのは、そういった音楽姿勢のためなのかも知れない。しかしそのサウンドはどこか温かみを持ち、陽気で健康的な色香を放っていた。メインの楽器がスウィングしているときでも、メランコリックな演奏のときでも。それをふわりと包み込む優しさがあった。そしてソロを任せた時は、そのサウンドは激しさを持ち始め、熱情と化す。そういう、作曲者に支配されることなく、個を殺さずに自分の音楽を表現できる人。地方のナイトクラブで初めてその演奏を聞いた時から、いつか一緒に音楽を作りたいと夏海は彼のサウンドに惚れ込んでいた。
だから今回ピアソラを演ることになったとき、サイドマン参加者として、そのギタリストに真っ先に白刃の矢を立てたのだった。
しかしプロの演奏家になっても、彼は相変わらず二輪への興味が尽きていないらしかった。
今回もそう。あまり時間があるとはいえない現地レコーディングをしょっちゅう抜けて、何をやっているのかと思えば、二輪フリー走行の見学。自分のソロパートの音録りが終わったのを良いことに、早速遠出してしまったらしい。しかし全員で録らなければいけない曲は、まだ数曲残っていた。携帯電話の電源を切って出掛けた彼を追って、スタッフがサーキットまで出向く。スタジオに戻ってきた彼に、バンドリーダーとして厳重注意しつつも、心内では何故か笑っている自分がいた。
バルセロナでのレコーディングも残すところ後3日となったところで、唐突に、夏海は彼からお誘いの言葉をかけられた。
「Natsumi、明後日バレンシアでモトGPの最終戦がある。…グランドスタンド席が二枚とれてるから、一緒に観に行かないかい?レコーディングは、明日の昼過ぎまでで切り上げればいい。」
あらあら、何のためにバルセロナに来たの?と言い返しそうになるのをちょっと我慢して、考えてみる。レコーディングはあと1曲を残すのみだし、こっちに来てからずっとスタジオに缶詰だった。せっかくのバルセロナなのに、まだガウディ巡りすらやっていない。バレンシアはちょっと遠いけれど…。気分転換に遠出するのもいいかも知れない。「Esta
bien.」と現地風に夏海が返答すると、ギタリストは少し目を見開いて、相好を崩した。
2日後。夏海は轟音の鳴り響くサーキットにいた。バルセロナから車で6時間。大渋滞の果てに辿り着いたバレンシア・サーキットには、エリア毎に騎馬警備隊が配置されていて、厳しい入場規制が行われていた。世界的なバイクイベントが数多く行われるこの街には、たしかな二輪文化が根付いている。だから当然、熱狂的なファンも多い。ギタリストによると、その人々が暴徒化しないためにサッキート警備が強化されているのだという。夏海も、心持ち構えて入場する。
と、レース開始直後に突然の爆竹音。サーキットの一角にもうもうとした白煙が立ち上った。ギタリストによると、スペインオフィシャル陣による演出だという。あれだけ厳しく来場者を取り締まっていたはずなのに、不思議な民族ね、と半ば可笑しく思う。
ドライコンディション。風もそんなに吹いていない。絶好のレース状態の中、ライダー達は鉄の塊にへばりつき、風に突っ込む。コーナーリングはリズム良く。ロングストレートに来ると、上体を低く保ってさらなる加速に努める。時速300km超の世界。走り去るアスファルトの地面からは煙が立ち、オイルとゴムの焦げた臭いを残していく。しばらくすると、また轟音とともにマシンは目の前に戻ってくる。
…一歩間違えれば事故になる状況のはずなのに、ライダー達の体はマシンからほとんど抜き身といっていい。四輪のほうが、周囲を車体カバーに守られている分安全そうに見える。先ほどの爆竹を思い出す。バイクレースって何だか可笑しなスポーツねと、一人心の中で笑う。
けれども抜きつ抜かれつのレース展開に、次第に引き込まれていく自分がいた。レースは思いのほか日本人選手が大健闘。ライン取りを外さず、コーナー直後で前車をかわして着実に順位を上げていく。F1ではまだ数えるほどしか入賞者が出ていないが、ジャンプや二輪では既に十分世界に通用するレベルにある、ということ。すなわちポケバイから気軽にレース経験が積んでいける日本の二輪文化が、最高峰のモトGPで優勝を狙える選手を育てているらしかった。初めて見る二輪レースに驚き興奮する夏海に、ギタリストはタイミングよく解説を入れ続ける。
ギタリストのほうはというと…。出場選手の中にかつてのライダー仲間がいるらしく、声を惜しまずに声援を送っていた。しかしどんなに熱狂していても、二輪初心者の夏海が質問をぶつけてくると、頭の中のチャンネルが切り換わるらしく、親切なレース解説を提供してくれた。
レースは結局、日本人ライダーが3位と5位に入った。スペイン勢は途中リタイア。お国柄なのか、リタイアした時点で現地応援団はぞろぞろと帰り始めていた。肝心の優勝は、某企業チーム所属のイタリア人選手の手に。ギタリストによると、その優勝者は現在の二輪レース界で、実力・人気ともにNo.1の選手だという。表彰が終わり、シャンパンファイトが始まる。入賞者が全身酒漬けになった頃には、周囲の男性クルーの歓声に混じって、女性ファンの黄色い声もよく聞こえていた。表彰台から降りてきた彼を、ボイスレコーダーを持った雑誌記者やらカメラのフラッシュが取り囲む。人だかりは壁を成し、夏海達と優勝者との間を遮り始めた。
もう少し近くで見よう、と夏海は人ごみの中に進んだ。
そのときだった。ドンッと胸に勢い良く飛び込んでくるものがあった。驚いて立ち止まると、目の前に少年がいた。少年。正確には少女だったのだけれど、そのときの自分にはそう見えた。
“Excuse me.Ahh….Perdon.”
蒼い瞳がこちらの顔を捉え、戸惑いがちに詫びた。亜麻色の髪と、白く艶やかな頬。顔立ちは東洋系だが、ヨーロッパ的な要素も感じる。ハーフの子だろうか。得意の人間観察に、しばし頭めぐらす。
“No problem.”
服装を正しながら、夏海は笑みを添えてそう言った。すると少年も安心したらしく、少しだけ笑い返して、また人ごみの中に消えていった。 |
それからしばらくして行った来日公演には、例のギタリストもメンバーとして加わっていた。ある地方都市を訪れたときのことだった。その街が地方公演の最終地であったこともあって、公演がはけた翌週はその街で休暇をとることにしていた。と、打ち上げの席でギタリストがまた、唐突にお誘いの言葉をかけてきた。今度はミニバイクレース。ポケバイよりワンランク上の、子供や若者向けのバイクレースだという。そんなレースもあるのね、と半ば感心する。休暇中の予定は特に決めていなかったので、二つ返事で承諾する。
翌週夏海は、またサーキットにいた。父親やその他の人々にサポートされた、ちっちゃなバイク野郎達が、プロ顔負けの熱いレースを繰り広げる。よく見ると、女の子も混じっている。彼女達は結構いいポジションに付けているではないか。"レースは男の世界"。そういう変な先入観を持っていた自分を、少しだけ恥じる。特大の蚊が飛ぶようなバイク走行音は、今回も相変わらず夏海の耳に届き続けていた。
そのうちマシンを目で追うのに疲れて、近くのTVモニターに目をやるようになった。電光掲示板やモニターは、バレンシアでは見かけなかった代物。改めて、よく整備された国内サーキットに感心する。モニターは、トップを独走する子供の姿を捉えていた。全身黒尽くめ、マシンも黒で統一している。画面が変わって、走行順位一覧表が出てきた。知っている子供など誰もいないのに、ぼんやりと眺めてみる。と、上のほうに、H. Tenohという名前があった。Tenoh。…そういえば昔、そんな苗字の友人がいた。珍しい苗字だったから、その人のことはよく覚えている。まさかねと思いつつも、1位を堅持するその子に何となく親近感を覚えてしまう。コーナリングが、とっても軽い。ある種リズミカルなまでの身のこなし。直線での加速も力みがない。“軽やか”という言葉がぴったりの走行模様だった。
その子供を、モニターと実際で交互に追い始める。結局、その子は1着で入った。ヘルメットを脱ぐその姿を、遠巻きに見つめる。亜麻色の髪。顔立ちは東洋系だが、純粋な日本人とは言い難い風貌。…あの人にどことなく似ている気もする。顔からすると女の子なのだろうが…。まだ9歳かそこらの子供であるせいか、どちらの性とも言いがたい容貌をしている。ふと、記憶の断片が頭をもたげる。しばらく前にバレンシアで会った、あの少年に似ている気がする。少年。もしかすると少女だったのかもしれないが。
表彰が始まった。1着の子供の名前が高らかに読み上げられる。
「…年度…シリーズ…杯…クラス第1位 テンオウ ハルカ。タイム…。 おめでとう!」
…テンオウ ハルカ。下の名前を知ったとき、夏海は思わず息を飲んだ。頭の中にバラバラに置かれていた部品が綺麗に配置されて、再び電気を通し始めた感覚。眠っていた記憶が掘り起こされ、思考のパノラマに再び色を持って現れ始める。
―――テンオウ ハルカ。私はあの子を…。知っているかもしれない。
国内外でたくさんの子供達に音楽を教えてきた夏海にも、その名前は彼女の頭に色濃く残っていた。もしあの子供が本当に自分の知っている“テンオウ ハルカ”ならば、自分はもうずいぶん前にあの子供に会っていることになる。
シャンパンファイトが終わった後、思い切ってその子に近づいてみた。
「おめでとう!すっごい速かったよ。」
そのときは初対面であることもあって、余計な質問は出来なかった。けれどもそれで十分だった。“ありがとう”と一言言い置いて足早に去るその子の顔を見て、先ほどの推測は当たっていたことが確認出来たから。まぎれもなく、晩秋のスペインで自分の胸に飛び込んできた、あの子供だった。
その後夏海は、ギタリストに頼んで、その子が出るレースに度々連れて行ってもらうことにした。…あの子供がバルセロナにいた子供と同一人物である確信は持てた。しかしまだ、自分が知っている“テンオウ ハルカ”である確証は持てていなかったから。
ヘルメットを脱いだその顔を、再び遠巻きに見つめる。やはり見れば見るほど、昔の学友によく似ている気がした。そして、自分がよく知っている“テンオウ ハルカ”という名の子供とほとんど寸分狂いない同一人物に思われた。
何度かサーキットに通っているうちに、ゆっくり話す機会が持てた。呼び止めたその子は、夏海の姿を見て、しばらくぼうっとしていた。ギタリストはそのことに気がついたが、夏海は気づかなかった。
その子は帰国子女なのか、片言の日本語を話し、英語やドイツ語のほうが達者だった。また声を聞いて初めて確信が持てたことだったが、その子は女の子だった。家族について質問してみる。両親とも既に亡き人で、今は親戚夫婦の元に引き取られているという。父親は職業レーサーをやっていて、仕事中に事故で亡くなった。母親は自分が生まれてすぐに亡くなっているため、全く記憶がないという。バイクを始めたのは、亡くなった父親がきっかけ。三歳の誕生祝いに父からポケットバイクをプレゼントされたことが契機になったらしかった。はと気づく。
“Ahh…What is the name of your father? Before I had racer's friend. He is dead. That's man may be same for your father.”
“You know? …Father's name is Reine Vernunft. He belongs to the team of
American F1 team. That name is "MAGNETICA". Are you my father's
friend?”
“Yes…,yes…. Yes,I am. I'm your father's old friend. Before I've been
in Sitges. And your father had a cottage there, and I told him everytime…sometime
I saw him the shopping street.”
―――やっぱり。
推測は、確信へと変わった。Reine Vernunft。夏海はその名前を知っていた。
彼の最愛の妻であった、希のことも。
…夏海と希の二人は、昔アメリカの音楽院で学を積んでいたことがあった。希は鍵盤楽器科ピアノ専攻。夏海と学校こそ違えど、同じニューヨーク市内で学んでいた。夏海とは、入学2年目からは学校近くの貸家をシェアする同居人だったため、お互いに毎日顔を合わせることに。共に音楽好きの両親の元で育ち、早くからプロの道を目指してきた。希は両親こそ日本人であるものの、生まれも育ちもアメリカで、早くからその学校への進学を決めていたらしかった。聞けば、某工業製品会社の令嬢とのこと。音楽が好きで音大関係に進んだとはいえ、最初の寮生活はかなり堪えていたことだろう。同じ日本人とはいえ、誰かと一緒に住む生活をまた送ることは、希にはもしかしたらストレスになっていたことかも知れない。それでも、お互いに家族ぐるみの付き合いがあったし、それ以上の関係もあった。
夏海はというと、米国に来る前は日本の大学院にいた。既に3年目で、大学に残るか演奏家として本格デビューするか決めなければいけない時期に来ていた。最終的に、休学しての渡米を決めたのは、国内で積める音楽的経験に限界を感じていたためだった。音楽学校には…今でこそジャズ専攻があったり、ロックンロールを専門に教える学校が出来てたりするけれど、その当時はどこも専らクラシックだった。日本にいるとその傾向は一層顕著で、学会でもまだ古典的な作品以外のものは音楽として認められていない節があった。学びたかったジャズはギグを積んで現場で覚えるものとされ、もう一つの研究テーマであった現代音楽も古典に較べてまだまだ軽視されている状態で、満足に演奏される機会もないまま譜面の山に埋もれていっていた。当然まだ、体系的な指導者も輩出されていなかった。
もちろん当時の国外の音楽学校にもジャズが学べるところは少なかったけれど…。夜毎にナイトクラブでジャズジャイアンツ達の生演奏が聞けて、昼は昼で音楽理論や対位法を一流の講師陣から学べる環境があることは、渡米するのに十分な理由だった。
希は、そんな夏海の良き理解者だった。最初はやはりカザルスのごとく現代音楽を毛嫌いしていたが、色々聞かせていると少しずつ耳慣れしていったようだった。
あるときペンデレツキの初期作品『広島の犠牲者に捧げる哀歌』を一緒に鑑賞したときのことだった。曲を聞く前に、譜面屋で手に入れた譜面を希に渡すと、顔色が変わった。無理もない。五線紙の上には、まるで黒の極太マジックで線を引いたような記載がなされていたのだから。
音楽が始まった。平穏な広島の朝に、突如放たれた原子爆弾。それを表現するために、あらゆる音が惜しみなく使われる。楽器の出す一番汚い音さえも容赦なく引き伸ばされ、何度も何度も繰り返される。耐えがたい音。夏海自身にも、その音は純粋な表現手段と割り切らなければとても聞いていられないようなものだった。瞬間、一オクターブ全ての音が一緒に出された。フォルティッシシモ。限りなく強大な音が、時を越えて今の空間を劈き続ける。その後ろの細かい音粒の散らばり。それは、飛散していく火の粉や崩壊する家屋をスケッチしていた。約10分間。希は身じろぎもせず、ただ黙ってその演奏を聞きつづけた。
いつもは自筆譜にまで立ち戻って作曲者の魂の声を追い、それを表現するために鍵盤の隙間にある音を拾い上げることにさえ努力を惜しまない希には、この曲は酷に聞こえたかも知れない。そうでなくても、非常に重いテーマを扱った楽曲だ。曲が終わっても、彼女はただ黙っていた。そしてしばらくして、静かに口を開いた。
「現代曲を聞くとさ、“音楽は美しくなければならないのよ”っていつも夏海に目くじら立ててたけど。今日は…。すごくショックだったわ。夏海が言うように、紛れもない現実を美音以外で表現することだって、音楽が持てる領分なのかもね。二つの領分を合わせたとき、音楽は初めて完全な姿となって…。真の人間性を持ち得る芸術表現となるのかも知れない。」
その、希。音楽院を卒業してしばらくして、呆気なく死んでしまった。彼女の両親は、あるF1チームのスポンサーになっていた。希はそのチーム主催のパーティに時々出席し、そこの専属レーサーと恋に落ちた。Reine Vernunftという若手レーサー。その名の通り、完璧に制御した風の中を自在に走り回る人。…彼とは、夏海も顔を合わせる機会がよくあった。レースで見せる、好戦的な表情とは違う、理知的で温厚な素顔。パーティ会場では、いつもその素顔のほうで出席していた。こちらの頭から、敵意とか嫉妬とかいうものを履き捨てさせる穏やかな表情。希はこの人と幸せになる。そう確信していた。
だがその予測は、途中から外れてしまった。Reineと婚約したとき既に身ごもっていた希は、出産場所として、自分のルーツである日本を選んだ。それで希は燃え尽きてしまった。生まれた乳児は助かったものの、母体は助からなかった。夏海はそのときニューヨークのスタジオにいたが、知らせを受けて緊急来日を決めた。サイドマン参加のスタジオレコーディングで、比較的早めにOKテイクが取れたのは、今覚えば虫の知らせだったのかも知れない。全てはもう、遅かったけれど。
希の産んだ子は、その後天王家の祖父母の下に預けられた。ニューヨークに戻って葬式が執り行われ、胸の上でに十字を切ったとき。希の母の手に抱かれていた赤ん坊の姿が、ふと目にとまった。喪服姿の人々に囲まれた、白頬の乳児。今思えば、あれが天王はるかとの初対面だった。
2年後。メルボルンで行われたF1グランプリ観戦直後に、希の両親が亡くなった。仕事の関係で飛行機を一便早めて米国に帰ろうとしたのだが、途中で事故に巻き込まれてしまったのだった。一人残ったはるかは、父Reineの元に引き取られた。
Reineと夏海は、その後も会う機会があった。日々出来高払いで生計を立てる彼は、幼いはるかを伴って世界各地のサーキットを回っていた。夏海と会うときに同伴してきていることもあったし、希の両親の元に預けてきていることもあった。
あるとき夏海がReineの持つ別荘を訪れたときのことだった。はるかはおらず、Reine一人が夏海を出迎えた。その日室内で晩餐を楽しんだ際、Reineは夏海に向かって自分の子供の話を話し始めた。
「子供の誕生日に、ポケットバイクをプレゼントしたんだ。もう3歳になる女の子だが、レースのVTRとか観せると画面に食い入るように見入ってしまう。試しにマシンをプレゼントしたら、とても楽しそうに乗り回してくれた。運転技術は、少し教えるとすぐ覚えてしまったよ。職業レーサーの僕より、ずっと素質があるかもね。周囲は反対半分、賛成半分ってカンジなんだけどね。…休みが終わって本人がアメリカから戻ってきたら、また楽しく乗り回すんだと思うよ。」
そう言って笑う彼の顔は、愛娘を愛する普通の父親の顔だった。彼は目の回るような忙しさの中でも、はるかの教育にだけは決して手を抜かなかった。小学校に行かない代わりに、通信講座を受けさせ、サーカスの合間に家庭教師を手配した。遊ぶときは好きなだけ遊ばせていたが、必要以上に甘やかすことはなかった。あれだけ忙しい人だったのに、どうしてはるかのしつけを疎かにしなかったのか。それは恐らく、彼が常に死と隣り合わせの世界に身を置いていたためだろう。
Reineの趣味はバイクだった。本業であるF1レースでは、走っているときの爽快感はいつもほとんどないという。仕事は、常に狭いマシンの中で行うことが要求される。補水は備え付けのチューブで。分厚いレーシングスーツが、走行中の摩擦で擦り切れて肌を傷つけるくらいの極環境。そんな過酷な環境下で、期待通りの記録を出すことが当たり前に求められる。そして、常に標準以上の記録を出すことも要求される。ただ、それをやり遂げたときに感じる達成感が、自分をサーキットに向かわせる原動力になっているらしかった。オフで会う時、レースの話をあまりしたがらないのは…。きっとそのためなのだろう。体に染みついた微かなオイル臭と、首周りの発達した筋肉。それらが、彼が身を置く世界の壮絶さを、夏海にも伝えるのだった。Reineは言う。
「だからバイクを走らせているときは、とても爽快なんだ。」
風と…いつもは敵でしかない“風”と、存分に戯れる喜び。ドゥカティのSport Touringがお気に入りらしく、黒いフルカウルでどこにでも出掛けていった。そんなに楽しいんだったら、二輪に転向したら?とあるとき冗談交じりにアドバイスすると、苦笑いが返ってきた。
「僕は、風を嫌いにはなりたくないよ。」
それから2年後。レース中の事故で、Reineは逝った。夏海のショックは、計り知れなかった。大切な友人だったから、だけでなくて。事故の直前にプロポーズを受けていたから。イタリアの別荘近くで、STの後ろに乗って走った後の出来事だった。
「タンデムシートに女性を乗せたのは、君で2人目。1人目は、Nozomiだった。」
あら光栄ねと笑い返そうとすると、まっすぐな視線とぶつかった。それはどうもプロポーズの言葉らしかった。夏海は戸惑い、その場での即答を避けた。
Reineの死後またもや一人残されたはるかは、日本にいる天王家の親戚・風谷家に引き取られた。それを機に夏海と天王家の関係は縁遠くなっていった。夏海はまた、一人忙しく世界を飛び回る生活に身を投じていった。…あの頃のはるかが、夏海のことをどれくらい認識していたかはわからないが。
子供の成長はとても早い。Reineの死から5年経ったバレンシアで再会したときは、夏海はその子供がはるかだとはわからなかった。後になって知ったことだが、はるかの方もあのとき夏海のことを気づいていなかったらしい。第一印象とか最初の出会いとかいうものは、その程度の重要さ。重要なのは、出会ってから後にその人と繰り広げるセッションの内容。その考え方は、夏海とはるかに最初から備わっていた共通の特性だった。
あるときまたサーキットに、はるかに会いに行ったときだった。いつも通りレースが終わった後に話し掛けると、突然はるかから驚愕の事実を聞かされた。日本での参戦はこのレースで最後。来月からドイツに引っ越すのだという。夏海はひどく驚きつつも、残念ねと一言だけ返した。渡独の理由を聞きたいのは山々だが、そういう込み入った事情を聞くのは憚られる。…たしかにはるかの親族とは親しかったが、希もその両親も既に亡き人。“部外者”の自分が根掘り葉掘り質問することは、子供相手とはいえ不躾だろうと感じていた。
色々考えながら次に言う言葉を捜していると、先にはるかが口を開いた。日本を離れる理由は、預かり先の親戚夫婦に赤ちゃんが生まれたため。「出て行け」と言われたわけでは決してないけれど、何となく、家の中で自分の居場所を見出せなくなってきたらしい。それで、日本を離れて祖父がいるドイツに行くことにした、とのこと。夏海は落胆した。Reineと希から、また永遠に引き離されてしまったような気がして。
夏海は以前、Reineを介してドイツにいるはるかの祖父に会ったことがあった。彼女が記憶する限りでは、その人は人当たり良い老人だった。大きなビール工場を持っていて、経済的な余裕があるようだが、もうかなりの高齢。7,8年前会ったとき既に妻(日本人。だからはるかは、日独のクオーターということになる)に先立たれていたから、今はきっと隠居生活を送っているだろう。裏を返せば、いつまではるかを支援することが出来るかわからないということ。はるかによれば、それでも孫の自分を引き取ることに積極的だったという。渡独は、来月の下旬。数年経てば、この子はドイツを出て、また別の人の元に引き取られることになるのだろう。また一人に戻って。
夏海は、近いうちにドイツに飛ぶことを決意した。
ドイツ、ケルン地方。ウィーンでの公演を終え、直後のオフ二日を充てた訪独。持ち時間はあまりない。現地の知人に頼んで車を出してもらい、アウトバーンをひた走る。風景を楽しむ余裕はほとんどなく、Reineの生家にまっすぐ向うことだけを夏海は考えていた。
長いドライブの果てに着いたReineの実家。そこには、7,8年前より一回り体が小さくなったはるかの祖父がいた。顔皺が一層増え、多少顔色も悪い。けれども両手を広げて夏海を迎える姿は、精一杯に大きく見えた。彼は、夏海のことをまだよく覚えていた。「息子の2人目の嫁さんがはるばる訪ねてきてくれた」と、持ち前の気さくさを見せながら、長旅の夏海を労う。通された部屋の中には、ReineのF3時代からの記念品やトロフィー、特大ポスター等が所狭しと飾られていた。夏海の脳裏に、Reineの甘いマスクが浮かんでは消えた。
しばらく想い出話に華を咲かせた後、夏海は本題を切り出した。疲れている暇はない。このオフ2日間が終わったら、米国に戻ってまた子供達に教鞭をとらなくてはならないのだから。
「はるかを引き取らせてください。…亡くなったReineや希、そして希のご両親のことを、今生きている者の中であなたと同じくらいよく知っているのは、恐らく私一人です。だから皆なの役目を、私が背負うことも出来ると思うのです。どうか私に、はるかの父になり、母になることをお許しください。」
単刀直入にそう言うと、気さくな彼も少なからず驚いたようだった。
それでも、しばらく黙した後。はるかの祖父はこう言ってくれた。
「…Harukaはもともと、甘えることを知らない子だ。忙しい家族のもとに生まれたため、大人の手を煩わせないように、何でも自分一人で片付けてしまおうとする。いつでも一人で生きている、と思い込んでいる子なんだ。
また不幸なことに、肉親とも次々に死に別れていった。悲しみを言葉には表さない子だが、父親が死んでからは、全てに無気力になってしまっている。何も望まず、何も拒否せず、生きること全般に鈍感になってしまっている。あの子からは、当たり前の欲すら失われてしまったのだ。普通に寝て、普通に食べて、普通に遊ぶことに疑問を感じている子なんだ。走ることが好きみたいだけれど、それも退屈しのぎでやっているに過ぎないのだろう。息子の影響で、モータースポーツもやっているが…。
私はHarukaに家族のぬくもりを与えたいのだが、見ての通り、もう先は長くない。あれに釣りを教えてやることさえ出来ない。でもNatsumi、あなたはまだ若い。そして私と同じように、Harukaを深く愛している。たとえ血が繋がっていなくても、血よりも濃く、あなたはHarukaと結びつくことが出来るだろう。」 |
それからしばらくして、夏海ははるかを正式に引き取った。ニューヨークでもう少し広い物件を借り直し、ドイツからはるかを迎え入れた。はるかはまだ10歳だった。バイクと、衣類と、少しの写真と。レース用の備品を除けば、プライベートな荷物は驚くほど少なかった。
はるかの祖父はそれから2年後に、癌で亡くなった。
…マスメディアには、それなりに叩かれた。 肉親から莫大な遺産を遺されたはるかを引き取った自分は、世間から見れば“金目当ての身元引き受け人”にしか映らない。…もちろん目的は金ではなく、はるか。希の面影を色濃く残すはるかを、Reineの後を追うように成長していくはるかを、一番近くで見守っていたかったから。当時はスキャンダルのせいでキャンセルされた仕事も多々あったが、それもはるかがいればこそ、夏海は乗り越えていくことが出来た。
はるかは運動能力が抜群に高い子だった。大抵のスポーツを卒なくこなし、勉強もそこそこにこなす。それは“手を抜く”ことを知らない子だったから。中でもモータースポーツに興味を示し、演奏旅行にくっついて各地のミニバイクレースに参戦していた。ツアー用の11tトラックの後ろを付いてくる、小さなキャンピングカー。そこに、はるかの愛機がいつも乗っていた。
レースにはお金がかかる。アマチュア・レベルでも、それは結構な金額だ。それらは、夏海が全て一人で賄った。はるか自身が遺産相続で引き継いだ額や、天王家から送られてくる養育費は、そのまま全てプールさせておくことに。夏海自身にもしものことがあったときのためだ。もしそのときが訪れても、それだけのプールがあれば、それを元手にしてまだしばらくはレースを続けていくことが出来る。それ以降の資金繰りは…。成長したはるかが、やっていかなければいけないことだけれども。
夏海とはるかとの共同生活は、3年間続いた。最初の半年は、夏海の活動拠点であるニューヨークで。けれども中学校からは、日本で教育を受けてほしいと願うようになった。はるかは生まれたときから、周囲の大人に連れられて世界を飛び回り、宿る場所を知らない渡り鳥のような子。せめて中学3年間くらいは、国籍のある日本で穏やかに過ごしてほしかった。そう思った夏海は、自分の演奏活動を日本国内に移し、出来るだけはるかの傍にいるように努力した。
そのときが、夏海にとっては一番幸せな日々だった。
はるかがどう思っていたかは、わからないけれど。
あるときのことだった。その日は日曜日で、はるかは都内の陸上競技大会に出場していた。家にはその大会が終わった後夕方4時頃までには戻る、とのことだった。
でも夜8時になっても、はるかは帰ってこなかった。電話連絡もよこさない。心配した夏海は、10時前に警察に捜索願を出した。警察への電話を切った後、落ち着かずNHKのTVニュースをつけて、洗濯や掃除をして気を紛らす。もしや臨時ニュースや画面上のテロップではるかのことが出て来ないか、と一人で気を揉む。夜11時。溜まっていた洗濯も全部干し終わり、NHKの音以外は、リビングはひたすら静かだった。深夜0時過ぎ。唐突に、玄関ドア方向でカチャッというが聞こえた。ロック解除音だ。
静かな足取りのはるかが、程なくリビングに入ってきた。日に焼けていて、目も充血している。「ただいま。」と一言言って、はるかは自室に引き下がろうとした。少しだけ、済まなそうな顔をして。夏海は堪えきれず、はるかを鋭く呼び止めた。無用の心配。けれど帰宅が遅くなるのなら、連絡くらいは入れてくれてもいいではないか。それすらこの子には、面倒なことなのか。
「どれだけ心配したって思ってるの…? 一人で生きてるって思わないで!」
夏海がはるかに怒鳴ったのは、そのときが最初で最後だった。日本で、自由にのびのびと生きていってほしい。もちろんそう強く思っているけれど、自分にははるかを守り育てていく責任がある。また夏海にとってはるかは、かけがけのない、大切な人間だから。どこで何をしているのかもわからないまま、一人で待ち続けることほど酷なことはない。
夏海の怒気を感じたはるかは、とりあえず黙した。言われたことの意味がよくわからない、というような、不思議そうな顔をしている。それからしばらく突っ立った後、一言「ごめんなさい。」と呟いた。部屋に戻っていくのを見送った後、捜索願のことを思い出す。夏海は警察に取り下げの電話を入れ、一つ溜息をついた。
はるかはその後、遅くに帰宅するときは、先に連絡だけは必ずしてくれるようになった。
3年目の5月、13歳のとき。家を出て一人暮らしをしたい、とはるかが突然言い出した。
祖父母の遺した天王洲の物件に移って、都内の無限学園中等科に編入学したい、とのこと。そのほうが、勉強にもバイクにも専念できるらしかった。いつかは自分の元を離れていく子。わかっていたことではあったが、夏海は大きな落胆を感じずにはいられなかった。
ただ、はるかの主張は、どこか説得力に欠けていた。ジュニアレーサーとして活動していく分には、今の学校でも十分配慮を受けているはず。はるか自身もそのことはしばしば称賛していて、不満がある風には全く見受けられなかった。では原因はなんなのか。…最近、やたら夜にうなされるようになったことが関係しているのだろうか。その年の梅雨は異常な高温状態が続いたこともあって、一時的に全てに苛立っているだけかも知れないと思った。他に理由は…。
ふと、はるかのレースをいつも見にきていた女の子のことが思い当たった。その子に関しては、夏海も少しプロフィールを知っていた。ヴァイオリンをやっていて、国内の学生コンクールで過去何度か最年少優勝を果たしている子だ。演奏自体は、以前審査員を勤めた某コンクールで一度だけ聞いたことがある。テクニックは上等。しかしステージ・アーティストとしての夏海の物差しは、みちるの演奏に対して“No.”と反応していた。
“Express yourself.”
…感想としては、“若者らしい演奏だった”としか言えない。
その少女に関して知っていることは、音楽のことだけではない。海王グループの一人娘、海王みちる。コンクール選考書類の履歴書欄を見て、気づいたことだった。“海王”という名を聞いて、何某かを思わぬ社会人はいない。海王グループは、海運・貿易・石油・造船業と幅広く財をなし、国内外の政財界ともコネクションが強い巨大組織。その豊富な資金力を背景に、幾つかの慈善団体を運営している。音楽財団も、その中の一つだ。
とくにグループの長であるみちるの父・海王湧二は、楽器や美術品のコレクター。事ある毎にオークションで名器を買収し、各界を賑わせている。…たしか数年前も、幻のストラディヴァリウス“マリン・カテドラル”を買収して新聞を賑わせていた気がする。しかしあのヴァイオリンは、噂によれば優秀な音楽家の手には渡らず、海王湧二の愛娘のオモチャにされたという話だった。“オモチャ”といえば言葉が過ぎるけれど、その当時の海王みちるに対する音楽界の認識度はその程度のものだった。
“あの娘が原因?”
そういう野暮なことは、もちろんはるかに聞かなかった。普通の保護者なら、多分絶対に聞いてみることなのだろう。しかし夏海は、聞く気にはなれなかった。聞いてきちんと説明出来ることでもないだろう、と思ったから。たとえYes/Noできちんと返答してくれたとしても、それに如何ほどの真実味があるのかわからない。そしてそれを聞くことは、みちるに較べて自分が魅力に劣ることを認める所作に他ならなかった。
夏海自身も、国内外から演奏依頼や母校からの教官招聘が来ていて、それ以上日本で活動を続けることが難しい状況になっていた。…もともとはるかは、いつかは自分の元を離れていく子。他の子より、ちょっとだけ“親離れ”が早いだけのことだ。
ずるい大人だ、と半ば自己嫌悪に陥りつつも、はるかの一人暮らしへ許可を与える。無論、経済的な面倒は今後も夏海が見続けることに。これからも不定期に会うことを約束して、夏海は再びニューヨークに戻った。 |