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今夜の番組チェック


1st Anniversary
初稿掲載日:2002年7月18日 / 最終修正日:2003年4月26日 / 謹呈:見原みるを様 / 作者:daydreamer

 先週末に行われたモトクロスレース参戦での地方出張を終え、はるかは昨夜遅く東京に戻ってきていた。今日は朝から学校に少し顔を出した後、昼から所属チームの愛機の元でメンテナンスに追われた。

 昨日のレースにおいて、後半から急に車体のバランスが取り辛くなったのを騙し騙ししながらはるかは走っていた。大方、フレームがいかれてしまったのだろうとは予測できたが、故障不能でリタイアするのはご免だった。無理を承知でマシンを飛ばし、後続に追い上げられながらも何とか一着でチェッカーを切った。
 今日、改めて愛機をばらしてみて、やはり大きく入っていたヒビを前後のフレームに認める。個所によっては、ずれるようにして大きく折れているところもある。エンジンやタンクへの損傷も大きく、替えを入れないととても走れそうにない状態である。気づいた後のジャンプはかなり控えめに飛んだつもりだったが…。マシンはやはり正直だった。こんなにこいつに無茶をかけて、あの程度のタイムしか出せなかったとは。不甲斐無さに一つ、ため息をつく。下を向いてしまいそうになる彼女の肩を、隣に控えていたチームメカニックがぽんっと軽く一つ叩いた。

 それからしばらくして…夕方頃、赤坂にいるみちるをはるかは車で迎えに行った。みちるは、来春出す新作CDの打ち合わせで、所属レーベルのプロデューサーと定期的に話を持つようになっていた。年に一度という、比較的遅いペースでの新作発表。ファンはわがままなもので『もっと』と切望するが、みちるは『これでも多いくらいだ』と一笑する。その発言には、アーティストとしての謙遜とともに、使命を追った戦士として平穏な生活ををいつでも終えるという暗黙の覚悟のようなものが含まれていた。
 ただみちる自身は、そんな明日すら見えない日々の中に、わずかばかりの物足りなさを感じていた。自分の使える音の幅を、表現を、新しい解釈をもっと広げていきたい。それはもちろん日本だけでは終わらない試みで、世界に出て、多くの巨匠の元で学んでいかなければわからないことである。そんな夢はもう何度も「諦めた」と念じたはずなのに、どうしてだか、まだ心のどこかでくすぶり続けていた。

“はるかがいる世界を守ることが、自分にとっては一番大事なことのはず。そんなこと、十分過ぎるほどわかっているわ。………けれど。もしこのまま、平穏な日々が続いてくれるのなら、私は……”


―――みちる


 所属レーベル社ビルの玄関付近で待っていたみちるに、近くに横付けしてきた車が声をかけた。現れた車の主を想う。考えが地に足をつける。つまらないことを考えていた自分を、心の中で叱る。みちるはすぐに顔をしっかりと上げて、フロントガラスの向こうにいるはるかに微笑みかけた。
“……はるかがいない世界でヴァイオリンを弾いたって、仕方が無いわ。明日をも知れぬ状況の中で、己の研鑚のために力を尽くすだなんで、本当に馬鹿げている。しばらく毎日が平穏過ぎて、少し、横着になっていたのね……。忘れてはダメよ、みちる――――私のヴァイオリンの音は、常に彼女のためにある。”

 車の主は車外に出て、助手席のドアを開ける。やってきたみちるは、はるかに軽く笑いかけながら、ありがとう、と一言心の中で呟いて助手席に乗り込んだ。



 天王洲コンドミニアム・タワー最上階、1127号室。この街で、東京湾の夜景が最も良く見渡せる場所の一つである。はるかはみちるをリビングに通し、自らはキッチンへと向かっていた。ワインセラーからよく冷えた一本を抜き出して小脇に抱え、グラス二つと簡単なつまみを持って彼女の元に戻る。みちるは部屋に二つある出窓の一つに凭れ掛かって、ガラス張りの夜景を眺めていた。ほの明るい部屋に静かに佇むその姿に、テーブルへと向かうはるかは少し歩みを止める。都会の華やかなイルミネーションと蒼白い月光の光を受けて、人形のように整った立ち姿が婉然と浮かび上がる。飾るものが何も無い殺風景なこの部屋で、その姿は他の何よりも美しく映えていた。こんな美しい人がこの場にいるのは…。何か、かなり不似合いなようにも思えた。ふと我に返って体の固着を解く。
 はるかが戻ってきたことに気づいたみちるは、部屋脇から中央にあるテーブルへと歩み来る。フローリングの剥き出し床に置かれたソファーに腰掛け、つまみやグラスが軽くセッティングされていく様子を見守る。物静かなみちるに、はるかが声をかける。
「疲れた?」
 ううん、と首を振り、艶のある微笑みをみちるは見せる。

 不意にインターホンが鳴った。はてなという顔をして、はるかがソファーから立ち上がる。モニタ越しに覗いた正面玄関ロビーには、宅配係風の男が一人立っていた。ロックを解除し、部屋の前まで通して、大きな籠のようなお届け物を一つ受け取る。薄い紙カバーがかかったそれは、はるかの腕の中で柔らかな芳香を生じていた。花か…。はるかは頼んだ覚えはない。両手で抱えてリビングまで持っていくと、みちるが笑いながら口を開いた。
「ああ、私が頼んだの。レコード会社に行く前にね、駅前のフラワーショップで…」

 届けられた品は、夏花を中心にチョイスしたらしいフラワーバスケットだった。部屋の中をぶどう酒とは別の、華やかで甘い香りが満たす。花の白、青、黄色。葉の透き通った緑。テーブルの上に載せて、涼しげに咲く夏花の様子をしばし鑑賞する。飾ってもいい?とみちるが聞く。はるかは頷く。みちるはソファーから立ち、バスケットを手に取って、リビング東側に突き出した収納棚の方に持っていく。辿り着いてこちらに伺いを立てた彼女に、はるかは再び軽く頷き返す。―――何か良いことでもあったのか、それともちょっとした気分転換か。考えてもわからないやと、花籠への視線をリビングテーブルへと戻す。戻ってきたみちるは、また静かにはるかの隣に腰掛けた。グラスに注がれるワインを見て、形の良い細い眉が少し下がる。
「はるかと初めて会ってから…今日で一年経ったわ。」 
 ボトルを置いたはるかは、ちょっとだけ目を見開く。
「え……。もうそんなに経つんだな…。」
「気づいてた?」
 幾分苦い顔をして、申し訳なさそうにはるかが首を振る。みちるは苦笑する。みちるにとっては、その日は望んで望んでようやくはるかに会えたひとときだった。忘れるはずもない。一方のはるかにとっては、何でもない日常に訪れた面倒な変化の瞬間だったのかも知れない。忘れてしまったほうが楽な想い出。考えると少し、顔が曇ってしまう。と、手にしていたグラスをはるかがテーブルに戻す。少しだけ淋しげな顔をしたみちるのほうを向いて、何やら大変言いにくそうに口を開く。
「ごめん、みちる……。今日だってこと…忘れてて、何も準備が出来てないんだ。すぐレストランに予約入れるから、ちょっと待っておいてくれるかな? 」
 みちるは曖昧に微笑む。一呼吸置いて立ち上がったはるかは、予約を入れるべく電話機の元へ向かう。棚から簡易電話帳を引っ張り出した後、ふとまた思い出したかのように肩越しにこちらに声をかける。
「ワイン、先に飲んでおいてくれよ。今からじゃ予約取れない可能性が高いけど、ダメだったら、今夜はどこでも好きな場所に連れて行くからさ。」
 それを聞いたみちるは、悪戯っぽい目をしてはるかに聞き返す。
「どこでも?」
 はるかは少し目を見開いて、おどおどと泳がせる。俄かに生じ始めた動揺を隠すべく、早めに言葉を返す。
「ぁ………、ああ。レストラン以外の場所なら、どこでも。」
 部屋に来たいと言うから、喫茶店で軽く休憩してそのまま連れてきてしまった。何か食べたいと言ったら、最寄のレストランからルームサービスを取れば良い、と軽く考えていた。そんな…大事な日だったとは。思ってもみなかった。自分にとっては既に霞んでいる記憶だが、彼女にとっては"記念日"ともいうべき大事な一日であったらしい。花まで注文してしまっている。夏の白い男子用学生服が、幾分湿ったような感じに丸く膨らむ。静かなはずのエアコン音が、不意にはるかの耳に入る。

 みちるはそれを見て、くすりと笑う。はるかは簡易電話帳からいきつけの店を軽くリストアップしてコールを始める。一軒目、二軒目、三軒目。どの店も、返答はノーだった。ダメ元でコールしているとはいえ、一軒くらいヒットしてくれまいかと気を揉む。四軒目もノーだった。五軒目、六軒目も、やはり。それはタウンページを見れば飲食店の電話番号など山ほど載っているけれど、二人の大事な記念事は、やはり二人の馴染みの店で祝いたかった。相手が海王みちるなら…尚更のことである。
―――だが予約は、絶望的だった。
 はるかは己の失態を重く見た。簡易電話帖を何度も捲っては、亜麻色あまいろの髪に手櫛を入れる。まとめあげた短い髪を無造作に引っ張って、硬質な感じのするプッシュホンにまた指を走らせる。

 みちるはソファーについて、しばらくその様子を見守っていた。グラスの赤を、一つ口に含む。…みちるに言わせてみれば、今日、高級レストランで晩餐することなどどうでも良かった。そんな誰とでも出来る恋の真似事よりも、ここで二人きりの夜を過ごせることのほうが、ずっと価値あるひとときであるから。けれどもはるかは、小さな失態にも大きな責任を感じて、償おうと頑張っていた。「そんなこと、気にしないで」と言えば言うほど気にかけて、己に負い目を感じて努力する人。だからみちるは、今のはるかを敢えて止めない。その事実ははるかが生真面目な性格であることを指していたが、同時にみちるをわずかに不安にもさせていた。グラスの赤を、また一つ口に含む。

 はるかは何に対しもそうであった。誰にも…みちるにさえほとんど甘えず、手を抜くこともせず、一人で問題を抱え込んでどうにかしようとする。そしてあるとき、極度に溜めこんだストレスによって、びっくりするほど脆く崩れてしまう。みちるが、はるかが無理をしていたことにようやく気づくのはいつもその崩れる時だった。知り合って一緒にいる時間が増えた後も、はるかはなかなか自分の本音を打ち明けようとしてくれない。発言はいつも、考え抜いた末の結果論でしかなく、みちるにさえ、本心では何と思っているのかは察することが出来ないことがまだ多い。

 思考が読めないということは存外苦労するもので、言葉が少ない代わりに活発な行動を追って彼女の状態を把握しなければならなかった。食事・顔の色艶・レース毎のメディカルチェック内容・いつもどこかしら負っているバイク怪我の回復状態。会うたびに彼女の隅々まで観察して、今どんな状態なのか把握しておかないと気が気でならなかった。当のはるかにしてみれば、『心配し過ぎだって、ちゃんとやってるさ』の一言で割り切れる話題なのだろう。
 バイクレース、とりわけハードなダートコースを走るモトクロスレースでは、メカ・人ともに生傷が絶えなくて当然。気をつけたって怪我するときは怪我するさ、というのがはるかの口癖である。だがみちるにしてみれば、いつ大きな怪我を負って動けなくなってしまうか気が気でないスポーツである。バイクは壊れたら部品を交換すればまた走れる。でもはるかが怪我したら、替えの体なんてない。そんな危ないスポーツ止めて、と言いたいのは山々である。
 だが昨日のことのようにレースの話をして、あどけない子供のように目を輝かせるはるかを見ていると、そうも言えなくなってしまう。風を受けて、誰よりも速く走っているときの彼女が一番美しい。競技場、サーキット、泥まみれのオフロード。そう思う気持ちは、知り合った今も全く変わっていない。だから仕方なく、心の中で一つぶつけ返して、騒ぐ気持ちを抑えるのである。

『あなたを見ていたら、そうしないといけない気分になってしまうのよ』

 今、そのはるかの気持ちをみちるが独占してしまっている。あまりにも一生懸命に電話し続ける姿を見ていると、胃でも痛くしないかしらと、また少し心配になってくる。けれども今のはるかは、滅多になく自分達のために一生懸命になってくれている。レースでも使命でも学校のことでもなくて、自分たち二人のために。そう思うと、いつもとちょっと違って何かこそばゆい感じがして、みちるは嬉しかった。空になったグラスに、また赤を足す。

 再三のコールに疲れてきたはるかは、背を向けたまま収納棚の上に肘をついて簡易電話帳を捲るようになってきた。みちるは苦笑しながら、白いYシャツの背中に声をかける。深い藍色の瞳は優しく揺れている。
「はるか、もういいわ。レストランの予約は、もういいから。」
 長らく電話帳に視線を落としていた亜麻色の頭が、ぽんっと弾かれたように上がって正面を向く。丸くクシャっていたYシャツも、皺をつと伸ばした。
「『いいから』って…、ダメだよ。」
 背の向こうを意識しながら、はるかは少し振り向き加減に言葉を続けた。
「せっかくの記念日なんだから、ちゃんと祝わないと…。」
 そう言って電話帳に視線を戻そうとする。みちるはまた苦笑する。
「……今から出かけても、明日疲れが残るだけだわ。」
 言われて、はるかはまた顔を上げる。置き時計を見ると、午後八時を回っていた。着替えてすぐ車を出したとしても、予約先でゆっくり食事を楽しめそうにはない時間帯だ。またこれ以上電話し続けても、このマンションから程近い場所に二人の席を確保することは難しい。はるかは一つため息をついて、捲り続けていた簡易電話帳を閉じた。




 大きな黒皮のソファーに、ようやく部屋主が戻ってきた。はるかは再びソファーに落ち着いたものの、申し訳無い気持ちで一杯で、きちんと顔を上げることが出来ないでいる。ごめん、とぽつりと呟く。隣のみちるが、少し笑って首を振る。飲みましょう、と言われて引き寄せたワインボトルが、思いの外軽かったことに驚いた。口に付けようか付けまいか迷っていたワイングラスを、静かにテーブルに置く。
「…どこか、行きたいところは? 外晴れてるみたいだし、風も暖かいから、オープンカーで出ても大丈夫だと思うよ。」
 みちるはまた小さく首を振る。
「ここで、ゆっくりとしてしたいの。」
「……、…本当にそれでいい?」
 軽く頷いたみちるは、だいぶん干した何杯目かのグラスをテーブルに置く。隣で元気なくワインを飲み始めたはるかの肩に凭れ掛かる。
「今日くらいは、一緒に───。 ね?」
 そう言われたはるかは、少し戸惑っていた。みちるは普段から、誰に対しても優しい人ではある。けれどこれほどまで大きな失態を、丸くカバーして無かったことにしてくれたのは、ちょっと驚きだった。二人の大切な記念日を、すっかり忘れてしまっていたのに。然して怒らず、まるでこちらの失態を心得ていたかのように優しい微笑みを見せている。それにはるかの記憶する限りで、こんなに静かに甘えてくるみちるを見たことはなかった。いつもなら、もう少し熱の持った瞳で求めてくるはずなのだが。
――――酔っているのだろうか。そういえば、今日はよく赤ワインを干していた。電話から戻ってきて持ち上げたワインボトルの軽さに幾分驚いたことを思い出す。みちるは、酒にはそれほど強くないはずだ。待たせていた自分が悪いのだが…。外で飲んでいなく良かったと、内心苦笑する。

 はるかの肩に凭れ掛かって、みちるはまだ酔いが覚めるのを待つままである。はるかは肩にあたたかい重みを感じて、少し目を細める。離れていた時間を思う。自分のことばかりで忙しくしている日々を省みる。人との深い交わりを避け、今まで誰とも一年と持たなかった自分を思い出す。そしてもう仮定ですら思い浮かばない、彼女に会っていない今の自分を思ってみる。
 この一年…彼女に会って、僕は変わった。変わることが出来た。無償の愛を注ぎ、命すら投げ打つ覚悟を見せつけられ、傲慢で塗り固められた己が心の壁が音を立てて崩れていくのを聞いた。初めて自分の命を惜しいと思ったし、初めて他の命も惜しいと思った。彼女に会わなければ、まず起こらなかった変化。…あれから一年が経った。今日で一年が経ったという。それならば今夜くらいは、みちるのために、全部……。

 まもなくして、はるかの口元からは小さな笑みがこぼれた。一日の疲れでやや白くなっていた顔も、俄かに赤みを取り戻し始める。肩に凭れ掛かっていたみちるを、鎖骨のあたりまで抱き寄せる。みちるは不意に体位を変えられ、少し眠たそうに顔を上げる。海色の瞳は凪いだように穏やかで、はるかを優しく見つめていた。少し無理に抱き寄せられて、よじれ加減に皺を寄せた女子学生服。酒のせいでほんのりと赤い頬と、火の入ったように赤い唇。艶のある、大人びた微笑。それらが、はるかの中に本能的な何かを呼び起こす。はるかは軽く、鼻で笑った。

Fin.

Photo:daydreamer
Special Thanks: 見原みるを様
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※この作品は、フィクションです。作品中に登場する名称や出来事は、実在の人物や出来事と一切関係ありません。